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仏教と外道の違い 2
1、プーラナ・カッサバの無道徳論(道徳否定論)

いかなる殺・盗・虚などの悪事をおこしても、悪をなしたことにはならず、

いかなる祭式、布施、修行などの善事を積んでも、善をなしたことにはならず

善悪いずれの場合でも、報いは存在しないと主張。

一般社会の道徳概念、善因善果、悪因悪果の因果応報を否定しました。


仏教は、この説に反対の立場をとります。

『法句経』に書かれているのは、

「人もし生けるものを殺害し虚を語り、与えられないものを盗り、

 他人の妻を犯し、飲酒にふける人は、

 この世に自らの根を掘るものである」(246,247)

「全ての悪をなさず、善を実行し、自分の心を清めることが諸仏の教えである」(183)

「全てのものは暴力におびえ、全てのものは死を恐れる。殺しても殺させてもいけない」(129)

「老いるまで戒を守ることはさいわいなり、信念を確立する事はさいわいなり、

 智慧を得ることはさいわいなり、悪をなさないことはさいわいなり」(333)



2、パクダ・カッチャーヤナの要素集合説

人間や世界は、

七つの集合要素(地・水・火・風の四元素と、苦・楽・生命(霊魂))で構成されているとし、

全て独立実在する実体とされ、

この七要素は不変、堅固で、安定し、動揺せず、変化せず、相互を損なわない。

創造されたものではなく、何かを創造するものでもない。

ゆえに、人の頭を切断しても人の生命を奪うことも無い。

刃のみが、この七要素を通過するのみ。


これに対し、

仏教は流動的世界観を持ちます。

身体、意識など、存在するもの全てが固定的存在性をもたない空である、とします。

全て原因と条件によって成立(因縁所生)し、

神、霊魂などの形而上学的存在も実体のないもので、

概念的存在に過ぎない、と考えます。


『法句経』(279)には、
 
「全てのものは実体がないと、

 いつでも智慧によって見る。

 その時、嫌気や苦悩を厭う。

 これが清浄への道である」

とあります。



3、アジタ・ケーサカンバリンの唯物論

世界は、

地・水・火・風の四元素のみが真の実在で、独立して常住である。

さらに、

これらの元素が存在し活動する場所として虚空の存在がある。

人間はこれらの四元素から構成されている。五蘊のうち、色だけを認める。

人間が死ぬと、

地の要素は外界の地の集合に入り、

水の要素は水の集合に、火は火、風は風に入り、諸々の器官の能力は虚空に変入する。

人間そのものは死とともに無となり、死後には何も残らない。

身体の他に、死後に独立に存在する霊魂などありえない。

愚者も賢者も身体が破壊されると消滅し、死後には何も残らない。

したがって、現世来世も存在せず、

善業あるいは悪業を成したからといって、その果報を受けることもない。



仏教では、これを邪見とします。
 
邪見とは、因果の法則に基づかない見解。

たとえば、

断滅論(あらゆるものは無い)と常住論(あらゆるものは有る)とか、

そのふたつに片寄らない中道が仏教の特徴です。

この世間の人々は、多くは二つの立場に依っています。それが有と無。

もしも人が正しい智慧を得、

世間の出現を如実に観ずるなら、世間において無はありえない。

また、

人が正しい智慧をもって世間の消滅を如実に観ずるならば、世間において有はありえない。

あらゆるものはある

というならば、これはひとつの極端説であり、

あらゆるものはない

というならば、これも第二の極端説。

人格を完成したブッダはこの両極端に近づかないで、中道によって法を説きます。

つまりこれは、

すべては縁起(縁と条件によって生滅)して実体は無い、

ということ。



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[ 2019/09/11 05:58 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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