やみくもに瞑想しても、ただ時間が過ぎるだけです。
瞑想によって心はどうなるのか、
心の動きを分析しなければ、
錯覚や妄想になるかもしれません。
真言を唱えるのも、ひとつの瞑想法ですが、
やみくもに唱えるだけなら、
「コカコーラ」とか「牛丼」と唱えても同じです。
心を分析する時、
意見や感想ではなく、
論理的でなければなりません 。
密教の瞑想法で代表的なものに月輪観があります。
それは、満月を瞑想します。
心は満月のようである、
という前提のもとに瞑想しますが、
では、満月とはどのようなものか、それをよくよく観じます。
それは、心がそのようなものであるということになります。
円満で欠けるところがなく、
清浄清涼で光り輝くけれど、太陽のように眩しすぎない。
雲に隠れることがあっても、雲の向こうにあり、
新月で見えなくても、時間が立てば満月になる。
そのような特長が分かれば、
月と自分とを分けるのではなく、
月に坐り、月に成るように工夫します。
もっと根本的なこともあります。
初めて月を見る場合でも、
脳内に記憶されている月を思い出す場合でも、
まずは月という対象があり、
その色、形などを眼識が受け取ります。
その時の月は「現在」であり、無分別です。
さらに、
眼から意識へ伝わったとき、
過去や未来の月になり、自分なりに認識する、分別された月になります。
そして、
キレイとか美しいなどの感情が起こり、
それが心の種に薫習され、記憶されます。
心の蔵には、
そのような種が詰まっており、
中心は清浄なもののみ、つまり、それが自性清浄心=仏である、
と瞑想します。
同じように、
怒りや妬み、怨み、
楽しみ快楽についても、
心がどのように働いているかを瞑想します。
そして、
心とは何か、自分とは何かを探求します。
___________________________________
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☆立石寺本堂修復について、浄財のご支援をお願いしております。
お気持ちがありましたら、こちらをご覧ください。
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心の動きを分析しなければ、
錯覚や妄想になるかもしれません。
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という前提のもとに瞑想しますが、
では、満月とはどのようなものか、それをよくよく観じます。
それは、心がそのようなものであるということになります。
円満で欠けるところがなく、
清浄清涼で光り輝くけれど、太陽のように眩しすぎない。
雲に隠れることがあっても、雲の向こうにあり、
新月で見えなくても、時間が立てば満月になる。
そのような特長が分かれば、
月と自分とを分けるのではなく、
月に坐り、月に成るように工夫します。
もっと根本的なこともあります。
初めて月を見る場合でも、
脳内に記憶されている月を思い出す場合でも、
まずは月という対象があり、
その色、形などを眼識が受け取ります。
その時の月は「現在」であり、無分別です。
さらに、
眼から意識へ伝わったとき、
過去や未来の月になり、自分なりに認識する、分別された月になります。
そして、
キレイとか美しいなどの感情が起こり、
それが心の種に薫習され、記憶されます。
心の蔵には、
そのような種が詰まっており、
中心は清浄なもののみ、つまり、それが自性清浄心=仏である、
と瞑想します。
同じように、
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