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宇宙の中の僕と、僕の中の宇宙
加藤精神博士の『佛教哲理の発達』は古い本(昭和7年)ですが、とても分かりやすい。
 
『密教の日本的展開』(勝又俊教 著)

『密教概論』(高神覚昇 著)

とともに座右に備えています。 


密教は

僕が、心が、苦しみが、仏が、宇宙が、

どのように成立し、分析するとどのようなものか

と云うことより、

どうすれば成仏できるかに重きがあります。


たとえば、

遠い宇宙から僕を観ようとすると、
 
広い宇宙の中に銀河系があり、

その中に太陽系があり、そこに地球がある。

今は関東の田舎の、ある一点に僕がいる。

それは、

宇宙から見れば塵一粒にも満たないバイキンのようなものである。

でも、それらが集って地球太陽系銀河系全宇宙を作っている。


反対に僕から宇宙を観ると、

空に太陽や月があり、

その向こうに銀河系があり、さらに広く大きな宇宙がある。
 
そこにあるのは変化であり、常住で唯一のものは認められない。


そして、

その宇宙は僕が観て感じて想像しているものだから、僕の中にあると云っていい。

加藤博士は、
 
全宇宙は我々の心の影である

と書いている。

詳しくは、阿頼耶識というものの現れなのだけれど、とにかく心が作っている。

僕は宇宙の中にいて、僕の中に宇宙があるいうことは、

僕自身が宇宙そのものである、ということ。



例えば、僕とあなたは違うけれど、僕とあなたを構成しているものは、

酸素窒素炭素などの、同じ元素である。

本当は、元素も因縁生で固定した実体は無いから、

「仮に元素」とする。

同じものから作られたのに、僕とあなたが違うのは因縁が、縁と条件が違うからである。

同じ土から、茶碗や鍋など違うものができるのと同じ。

 
もちろん、

僕とあなた以外も同じである。

だから、

僕は一塵の中の土であり、仏であり、あなたであり、宇宙でもある。


僕には手足顔があるけれど、

手も元素からできている。

ここからここまでが手、というのはこちらの都合で決めたことだから、

足や顔は手の端っこと云ってもいい。

どちらにしても同じものである。

これは手である、

これは元素由来のものである、

水と波を観ているようなもの。


このように、

全体から見ればみな同じで平等無差別だけれど、

部分を見ると差別区別がある。


真如から観ればひとつ、同じだけれど、

事実は違う。


こういうことをよくよく考えれば、
 
一切衆生は仏であり仏の中にいて、

皆仏である、ということになる。

これが分かった瞬間、

苦悩は消える。




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[ 2018/06/08 14:08 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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