安心は仏教語で、読みかたは「あんじん」
意味は、心がやすらかであること。
安心はおしつけられるものではなく、そう思わずにはいられない心のこと。
原発とか在日米軍とか政治家とか、
安心なのかどうかは、そういうことです。
幼子は親がそばにいれば安心。
おとなになっても、親がいることで安心します。
宇宙法界も一粒の塵も、あなたも私も大日如来であるという立場なら、
現実にそうでは無くても、その自覚に生きていれば、
大日に包まれて生きるという安心が生まれます。親子と同じ。
親がいない時、
何か危険なことがあると、他の家族や近所の人が助けてくれれば安心。
同じように、
大日如来を感じなくても、薬師不動観音地蔵などが力添えしてくれます。
意味は、心がやすらかであること。
安心はおしつけられるものではなく、そう思わずにはいられない心のこと。
原発とか在日米軍とか政治家とか、
安心なのかどうかは、そういうことです。
幼子は親がそばにいれば安心。
おとなになっても、親がいることで安心します。
宇宙法界も一粒の塵も、あなたも私も大日如来であるという立場なら、
現実にそうでは無くても、その自覚に生きていれば、
大日に包まれて生きるという安心が生まれます。親子と同じ。
親がいない時、
何か危険なことがあると、他の家族や近所の人が助けてくれれば安心。
同じように、
大日如来を感じなくても、薬師不動観音地蔵などが力添えしてくれます。
『弘法大師觀』(森田龍僊著)には安心について、
「三界六道、長く一如の理に迷い、常に三毒のことに酔うて幻野に荒猟して、帰宅に心なく、夢落に長眠す。覚悟いずれの時ぞ。
今、仏眼をもってこれを観ずるに、仏と衆生と同じく解脱の床に住す。これもなく彼もなく、無二平等なり。不増不減にして周円周円なり。すでに勝劣増益の法なし。何ぞ上下損減の人あらんや」(吽字義 汙字の義)
「平等の三密は法界に遍じて常恒なり。五智四身は十界に具して欠けたることなし。悟れるものをば大覚と号し、迷えるものをば衆生となづく。衆生痴暗にして自ら覚るに由なし。如来加持してその帰趣を示したもう」(声字義)
をあげています。
どちらも、衆生すなはち悟りの仏だから、それを信じ、理解し、勉強し、体得すれば安心、
ということ。
これは自分の心を知ることです。
だって、自分と仏が同じなのだから、
自心をよくよく観察して理解すれば、そこで仏になる。
こういう心を身につけるのはトレーニングが必要。
多くの種類があるけれど、真言宗の先達は、
真言を念誦するというトレーニングを勧めてきました。
「これは老人婦女子も簡単にできる容易な修行である」
と、蓮体和尚の『真言開庫集』にあります。
僕に大きな可能性があるように、
宇宙全体すべての存在が大きな可能性を持っています。
その可能性は心のやすらぎになるばかりでなく、
社会や他人への貢献にもなる。
念誦や瞑想や勉強などで、大きなものを知り、
それと自分は同じと理解したとき、
一切の不安苦しみが消え、安心が得られます。
※お知らせ
1、施餓鬼供養(先祖供養)のお知らせ
2、お盆のお知らせ
3、ご祈祷のお知らせ
4、出張講座・教室のお知らせ
「三界六道、長く一如の理に迷い、常に三毒のことに酔うて幻野に荒猟して、帰宅に心なく、夢落に長眠す。覚悟いずれの時ぞ。
今、仏眼をもってこれを観ずるに、仏と衆生と同じく解脱の床に住す。これもなく彼もなく、無二平等なり。不増不減にして周円周円なり。すでに勝劣増益の法なし。何ぞ上下損減の人あらんや」(吽字義 汙字の義)
「平等の三密は法界に遍じて常恒なり。五智四身は十界に具して欠けたることなし。悟れるものをば大覚と号し、迷えるものをば衆生となづく。衆生痴暗にして自ら覚るに由なし。如来加持してその帰趣を示したもう」(声字義)
をあげています。
どちらも、衆生すなはち悟りの仏だから、それを信じ、理解し、勉強し、体得すれば安心、
ということ。
これは自分の心を知ることです。
だって、自分と仏が同じなのだから、
自心をよくよく観察して理解すれば、そこで仏になる。
こういう心を身につけるのはトレーニングが必要。
多くの種類があるけれど、真言宗の先達は、
真言を念誦するというトレーニングを勧めてきました。
「これは老人婦女子も簡単にできる容易な修行である」
と、蓮体和尚の『真言開庫集』にあります。
僕に大きな可能性があるように、
宇宙全体すべての存在が大きな可能性を持っています。
その可能性は心のやすらぎになるばかりでなく、
社会や他人への貢献にもなる。
念誦や瞑想や勉強などで、大きなものを知り、
それと自分は同じと理解したとき、
一切の不安苦しみが消え、安心が得られます。
※お知らせ
1、施餓鬼供養(先祖供養)のお知らせ
2、お盆のお知らせ
3、ご祈祷のお知らせ
4、出張講座・教室のお知らせ
PR