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故人の成仏
故人とは死んだ人

成仏とは仏(ブッダ)に成ること

全ての存在には仏性(仏の性質)があるから、

だれでも仏に成れます。

戻れる、と言ったほうがよいかもしれない。

仏になる(戻る)ためには勉強と修行が必要

仏に成るとは、正しい智慧を得る(智慧そのものになる)こと

勉強、修行、智慧を得るには肉体、とりわけ脳が必要です。

したがって、

肉体が無い、この世にいない人が成仏する事はありえない。

電車に乗ることも、レストランへ行くこともできないように。


死ぬのは当人にとって苦であり、縁者にとって悲しみです。

なぜでしょうか。

それは、生きることに執著しているからです。

生命に執著する。

死や老や病は、その生命を破壊するから苦悩になり、

避けたいものになります。

なぜ生命に執著するのか。
 
肉体や家庭やそれを取り巻く世界に執著するから。

なぜ、それに執著するのか。

肉体や家庭などを自分のものとして執著するから。

それもなぜか。

欲があるから。

なぜ欲があるのか。

自我があるから。

ここが問題ですね。

自我は実在していません。単なるイメージです。

無いものが執著しているのです。


自我は無い(無我である)、

自分だけでは存在しない、自我という固定的な存在性はない、

これが正しい智慧のひとつです。

総ては縁起によって生じて滅し、空であることを体験していないから、

欲が起り 、

欲によって執著が生まれ、
 
執著によって生命や家庭に執著し、

その生命や家庭を破壊する死が苦悩になる、

と考えられます。
 

ではなぜ、

葬儀法事などで故人の供養をするのでしょうか。

古来、死者は霊になると考えられました。

それは物の怪であり、

畏怖の感情に根づいており、

それを慰撫し、祭ることで畏怖から解放されます。

そうして鎮魂されなければ霊は祟るものと考えられました。

死は避けたい、怖いものだから、

みな、生命に執著しているからです。


『性霊集』にある死者の追善菩提を願う文章では、

霊が祟るものとして考えられていません。

すべての存在には仏性があるので、

死者の霊にもそれがある、という立場で、

心中の仏を出現させ、

心中の仏法を聞いて悟る、

つまり、成仏を祈願される霊になっています。

死者は鎮魂されるものではなく、

成仏を願われるものになります。

これらは無我の思想と矛盾します。

まったく合理的でなく、論理的でありません。

霊という実体は無いのですから。

でも、それでよいのでしょう。

死の悲しみを、追善供養することで鎮め、

成仏したことにして安心する。

生きる人が、いつまでも悼み悔やんでも益がありません。

なので、
 
生者のために法事をして死の事実を受け止めます。

成仏するかどうかは、生きている人の脳が考えます。



自分が成仏する(故人を成仏させる)ためには、

仏と自分と衆生が平等であるとの立場で、
 
仏と自分と衆生の、

体と言葉と思いが相応するという三密行(瞑想修行)が必要です。

この修行は、三昧耶戒を保たなければできません。

三昧耶戒の内容は、

大悲(救いの心と行い:生きるとは他を救うことと自覚する)
勝義(道を求める心と行い:存在とは何かを追求する)
三摩地(心の源底を知る精神集中:自由になる)



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[ 2019/11/08 08:52 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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