この質問は論理的に成り立たないのです。
なぜなら、
主体が無いからです。
たとえば、僕が死ぬ場合、
主体的であった「僕」と「僕の身体」は無くなります。
僕の身体は、
死ぬと機能が停止して、やがて遺骨遺灰になります。
「僕」という概念も、
死ぬと、それを認識する脳が機能停止して、無くなります。
なので、
死んだらどこへいくか、
という行くもの(僕と僕の身体)が無いのです。
無いものは、どこへも行けません。
そもそも、無いものを考えることができない。
そこで、
永遠のいのちや、霊魂など、
行けるものを想定することがあります。
しかし、
それを信じるのは自由ですが、真実ではありません。
真実とは、
因縁生と無自性空、
と仏教では考えています。
あらゆるものは生滅します。
生じたものは、必ず滅する。
どのように生じて、どのように滅するかといえば、
縁と条件によります。縁起の法則ですね。
縁と条件によって生じ、滅するものには自性(本体)がありません。
これを空と云います。
常住不変唯一なものは存在しない。
これが真実です。
生まれて死ぬ、という真実、
そこに本体は無い、変化するのみ、
という真実。
だから、
永遠のいのちはあり得ない。
なので、
死んだら、どこへも行かない、行けない。
行くものが無いのですから。
生きている人の心には、
死んだ人の思い出が残ります。
その思い出をどのように受け取るかで、
人生の質が変わります。
なぜなら、
主体が無いからです。
たとえば、僕が死ぬ場合、
主体的であった「僕」と「僕の身体」は無くなります。
僕の身体は、
死ぬと機能が停止して、やがて遺骨遺灰になります。
「僕」という概念も、
死ぬと、それを認識する脳が機能停止して、無くなります。
なので、
死んだらどこへいくか、
という行くもの(僕と僕の身体)が無いのです。
無いものは、どこへも行けません。
そもそも、無いものを考えることができない。
そこで、
永遠のいのちや、霊魂など、
行けるものを想定することがあります。
しかし、
それを信じるのは自由ですが、真実ではありません。
真実とは、
因縁生と無自性空、
と仏教では考えています。
あらゆるものは生滅します。
生じたものは、必ず滅する。
どのように生じて、どのように滅するかといえば、
縁と条件によります。縁起の法則ですね。
縁と条件によって生じ、滅するものには自性(本体)がありません。
これを空と云います。
常住不変唯一なものは存在しない。
これが真実です。
生まれて死ぬ、という真実、
そこに本体は無い、変化するのみ、
という真実。
だから、
永遠のいのちはあり得ない。
なので、
死んだら、どこへも行かない、行けない。
行くものが無いのですから。
生きている人の心には、
死んだ人の思い出が残ります。
その思い出をどのように受け取るかで、
人生の質が変わります。
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