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無の代表・私
ハロウィンの飾りつけや包装を見る季節になりました。

この行事には、

死者の霊、精霊、魔女が登場するようですが、

無いものを想像するのは面白いですし、

生活上の利点もあるのでしょうね。


無いものの代表が「私」です。

これを「ある」と思うころから、苦悩迷いが生まれます。

私の姿はあります。

存在はしているけれど、実体は無い。

これが事実。


私の姿、私の声、私の匂いなどを感じることはできます。

でも、

五感がそれを認識しているに過ぎず、

私の実体はどこにもない。
 
私=私の姿・私の声・私の匂い

ではありませんから。

なので、

声と姿と匂いがなければ、私はいないことになります。

そもそも私とは何でしょうか。

精霊魔女と同じ、イメージでしょうか。

存在からくる私というイメージならば、

私というものが無いことが分かります。

ダライ・ラマは記号と云っています。

私が世界、宇宙の一部だとすれば、

一部は全体であり、全体は一部である

という考えかたもできます。

これらのことを、

私は空である、

と仏教では表現します。


『大智度論』巻三八 に

仏法の中に二諦あり。

一には世諦、二には第一義諦なり。

世諦のための故には衆生有りきと説き、

第一義諦のためにの故には衆生所有なしと説く。

また二種あり、

名字の相密号を知らざるもののためには、第一義の中に衆生なしと説き、

名字の相密号を知るもののためには、第一義の中に衆生ありと説く

とあります。

そして、

密教の修法では常に、

あらゆるものの姿は、みな自心に由る

心も物も、

みな幻、陽炎、蜃気楼 木霊のようなもの 。

そのような心の姿を如実に観じることで、

仏の智慧を得る

と観想します。


仏の智慧とは、

存在とは何か(上の二諦)

を知ることであり、

それは、

全一の生命、平等の価値、適切な慈悲、永劫の創造

に広がります。



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[ 2019/10/24 10:01 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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