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真言密教の悟りかた
三密行を修して、本不生を感得する 、

というのが密教で考える成仏です。

本不生は本来不生不滅のこと、

存在の根本、真如。

心もモノも、仏も衆生も、

因縁でもなく、自然発生でもなく、神さまが作ったのでもなく、

あらゆるものは本不生であることを観ずるのが悟り。



三密行は凡聖不二観。

凡と聖が不二であると観ずる方法。


道場では、

手に印を結び、口に真言を唱え、心に悟りの象徴を観想し、

仏(悟り・聖)のからだで、

仏の言葉を使い、

仏の心になります。

 
道場外の生活では、

優しさと思いやりの言動をし、

にこやかに話し、

全てに本不生を見る。

慈悲と

道を求める向上心と、

絶対自由の心を

を忘れないようにする。



知識は過程であり、

それは目的としての智慧になります。

この智慧も悟り、成仏、清浄心と同じこと。

鏡のように全てをありのままに映し出す智慧によって、

貪り、怒り、愚痴の三毒が消えます。



全てを平等に見る智慧によって、

自他を隔てることをしなければ、

自分が、自分が、という貪りが無くなります。


よくよく見きわめる智慧によって、

視点が多くなれば怒りが消え、


行動する智慧によって、

慈悲の言動が愚痴を消します。


これらの智慧は、

本不生は不可得であると観想する三密行によって発生展開します。

その内容を『秘蔵記』66には、

五字の観において不可得を観ずるその意いかん
これは迷遣の義なり
至極の義にはあらず
円明を観ずる これ至極なり
十喩(幻 陽炎 夢 影 けんだつば→蜃気楼 響 水月 泡 空華 旋火輪)
の観において密厳海会現前する時、陽炎のごとしと観ずるその心いかん。
もしこれ至極と思えば、その意留着してまた慢心をなす。
たとえば鏡を磨く時少しき影像を現ずるを見て、とどまる時には、ついに実の鏡を成ぜざるが如し

とあります。



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[ 2019/10/07 09:46 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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