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精進?料理?
「広辞苑」には、

【精進料理】 精進物の料理⇔生臭料理

とあり、

【精進物】 肉・魚介類を用いない食物。野菜類・穀類・海藻類の食物⇔生臭物

とあります。


『片言』(安原貞室)には、

料理は魚鳥を調理するもので、

精進物を調理したものは調菜というのが正しい

とあり、

そうなると、精進料理という言葉はありえないことになります。

まあ、それはそれとして、ちょっと考えてみましょう。


密教の修行生活中は、

基本的に持斎。これは、正午を過ぎて食事を摂らないこと。

ある期間を菜食に限るとするのは、

「断五穀令菜食」(『八千枚之事』)

などにありますが、

この菜食は「五穀を摂らないこと」

専心供養を行じる時は断食。

『不動使者陀羅尼秘密法』には、四種の精進行として、

1、断食
2、服気
3、食菜
4、節食

をあげています。


精進は仏教修行カリキュラムのひとつです。

サンスクリット語 vīrya(ヴィーリャ)の訳で、

悪を断ち、善を実践し、雑念を去って修行に励む積極的な姿勢。

淡々と真面目に、ということ。

他のカリキュラムである、

布施(惜しまない、ケチらない)
持戒(慈悲と向上心を忘れない)
忍辱(耐え忍び、微笑む)
禅定(心を静かにまとめ、観察する)
般若(空を体験する)

と同時に修めるべきものです。

仏教の土台は戒律であり、

それを保つことで禅定(心の集中)が得られます。

そして、そこから智慧が生じます。

ですから、

戒がなければ精進も期待できない。

戒のない坐禅は、単なるリラクゼーションであり、

戒の無い読経や儀式はパフォーマンスに過ぎません。

同じように、

戒の無い調理は、精進物を使っていても、

単なる野菜料理であり、精進料理ではないでしょう。

 
精進料理は、何を作るかよりも、

どのように作るか、どのように食べるかに重きがおかれます。

修行だからです。

まとまったものでは、

道元さんの『典座教訓』と『赴粥飯法』がありますが、

現在の食時作法にある五観に、もっともよくその精神が現れています。

五観 
一には、功の多少を計り、彼の来処を量れ  
(己の行為をかえりみ、この食べ物が如何にして作られたかを思う)

二には、己が徳行の全か闕か多か減かを忖れ  
(己の徳を積む行いが、完きか欠けているか多いか少ないかを思う) 

三には、心を防ぎ、過を顕すは、三毒に過ぎず  
(善心を妨げ過ちを起こすのは、貪りと瞋りと愚痴なることを思う) 

四には、正しく良薬を事とし、形苦を済はんことを取れ  
(食べ物はいのちを養う為であり、正しい食物を必要の限度にとることを思う) 

五には、道業を成ぜんが為なり、世報は意に非ず  
(自他ともに幸せになることを目標にして、徒に世の栄達を願わざることを思う)

悟るために作り、

悟るために食べる、

ということ。


『秘蔵宝鑰』上に

ただ日夜に営々として衣食の獄につながれ、

いたずらに遠近にはしりおうて、名利の坑におちている。

禽獣を狩りつくすとも、心にはいまだ飽き足らず、

厨屋(くりや)には魚鳥が満つれども、

舌にはなお飽くことをしらずして、殺生を犯している

とあり、

これについて、中川善教先生は

物にのみ執著し、飽くまで欲を追い求める恣意の生活から、

本具の仏性を開顕すべき勇猛心の生ずることは、

得て望むべきことではあるまい

と『八千枚護摩供』に中に書いています。


具体的なことでは、

精進料理の眼目は、

命をいかすこと。

調理としては、素材の味を引き出すことで、

それは出汁と塩によります。

相手の良いところを引き出せるようになれば、ありがたい。

砂糖と化学調味料は、

それ自身の味が強すぎるので、素材の味を消してしまうことがあります。


辛酸甘鹹苦の五味のほかに、

淡味を大切にします。

後味とも云い、

食事が終わった後で、おいしかったと感じるような味。

そして、

常にこれが最後と思って料理する 、

この後、いつ死ぬのかわからないのだから、

最高のものを作ろうとする、

それが精進の姿勢です。


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[ 2019/10/29 11:43 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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