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観察と迷信
よくよく考えると、

自分と自分以外について、

存在しているというレベルで差別はありません。

姿形、働きに違いがあるだけです。

つまり平等である、

ということを忘れない、これを戒とします。

その平等である、

ということに心を集中させるトレーニング(禅定、瞑想、観想)をします。

そして、

対立する概念

たとえば、観るものと観られるものが平等で無二であると了解します。

それまでの、差別の目が無くなることが、

ひとつのの悟りです。

これは、実の如く自心を知る、

ということです。


一切のものは、最初から汚れているのではありません。

それに、

汚れている、という実体はなく、ただの感想です。

元々は汚れていないのですから 、自性清浄です。

一切が清浄なら、私も清浄です。 

とにかく、本性が清浄であることに気を向ければ、

垢塵を離れていることに気がつきます。 

そのような考えかたにより、

暗い部屋に灯りがつくように、

ピンボケの眼にメガネをかけるように、

心の曇りがとれ、はっきりと真実が見えるようになるでしょう。


心に思う大空や宇宙は大きく、

それらが入っている心は、さらに大きい。

自分もその心から生じているので、

宇宙そのままが自心となり、
 
自らの外に宇宙はなく、

外と内が一致します。


総てはその心の中にあるので、

心の中にある仏、自分、衆生は平等です。

仏、自分、衆生を言葉で限定し、規定しているのは自心ですから。



論理的に考え、

それを瞑想修行によって感得する、

という方法が仏教ですが、

確証の無いままに、何かを盲目的に信じることは迷信です。

知識を持たないまま、

多くを受け入れ、多くを拒む、

それを戯論としています。

ただ、皆が信じていることを信じるのではなく、
 
背後にある理由や、
 
なぜそうなのか、

を考えることで、

自分の心のみではなく、

世界の平安につながるでしょう。


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[ 2019/11/21 16:01 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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