思い通りにならないという苦に対し、
思い通りになるという楽を求めることを、
執着(rāga)と云います。
この思考では、
苦が無くなれば楽も無くなります。
普段、言葉を使うことによって、
その言葉が持つイメージで固定された認識を持つので、
多くの場合、正しい判断や正確な認識ができません。
苦や楽は主体側にのみあります。
鳥の声を聞いて、美しいと感じます。
美しいと感じるのは主体(私)であり、
鳥(客体)には、何の関係もありません。
鳥、美しい、などの言葉で、主体側が勝手にイメージしていだけで、
それが真実かどうかはわかりません。
この、
主体と客体を分別することは、識によって行われますが、
僕らの日常は、
主客相対の上に成り立ち、相手を区別し分析します。
それは、事実のありのままの姿の認識ではなく、
僕がそう感じた、という主観によって組み立てられたもので、
誤謬性があり、妄分別(vikalpa)です。
つまり、
だれが何を感じようと、
真実は言葉で説明できません。
そのため、
仏教では、真言、梵字、仏具、曼荼羅、仏像、香、景色、月星、自然などで、
シンボライズします。
心とは満月のようなもの、
などと。
心そのものを言葉で定義できないからです。
この、主体と客体の分別を停止することで、
執着の止滅→苦楽の止滅になります。
ふたつの対立を無くするのです。
存在の真実(なぜ存在しているのか、など)は
言葉では説明できないので、多くは沈黙されます。
しかし、それでは分からないので、
作法や所作などを通して説法します。
悟りとは、実の如く自心を知ること(大日経)ですが、
それは、
心の執着する内外、分別等の、
あらゆる執着(とらわれ)よくよく観察して離れることです。
具体的な瞑想法では、
虚空は無ではなく一切を含容しているように、
ひとつの作法、ひとつの動作が、
法界に周辺すると観想すること。
これによって、
表現されないものを観ます。
※Ofuse お布施箱
思い通りになるという楽を求めることを、
執着(rāga)と云います。
この思考では、
苦が無くなれば楽も無くなります。
普段、言葉を使うことによって、
その言葉が持つイメージで固定された認識を持つので、
多くの場合、正しい判断や正確な認識ができません。
苦や楽は主体側にのみあります。
鳥の声を聞いて、美しいと感じます。
美しいと感じるのは主体(私)であり、
鳥(客体)には、何の関係もありません。
鳥、美しい、などの言葉で、主体側が勝手にイメージしていだけで、
それが真実かどうかはわかりません。
この、
主体と客体を分別することは、識によって行われますが、
僕らの日常は、
主客相対の上に成り立ち、相手を区別し分析します。
それは、事実のありのままの姿の認識ではなく、
僕がそう感じた、という主観によって組み立てられたもので、
誤謬性があり、妄分別(vikalpa)です。
つまり、
だれが何を感じようと、
真実は言葉で説明できません。
そのため、
仏教では、真言、梵字、仏具、曼荼羅、仏像、香、景色、月星、自然などで、
シンボライズします。
心とは満月のようなもの、
などと。
心そのものを言葉で定義できないからです。
この、主体と客体の分別を停止することで、
執着の止滅→苦楽の止滅になります。
ふたつの対立を無くするのです。
存在の真実(なぜ存在しているのか、など)は
言葉では説明できないので、多くは沈黙されます。
しかし、それでは分からないので、
作法や所作などを通して説法します。
悟りとは、実の如く自心を知ること(大日経)ですが、
それは、
心の執着する内外、分別等の、
あらゆる執着(とらわれ)よくよく観察して離れることです。
具体的な瞑想法では、
虚空は無ではなく一切を含容しているように、
ひとつの作法、ひとつの動作が、
法界に周辺すると観想すること。
これによって、
表現されないものを観ます。
※Ofuse お布施箱
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