金剛界三十七尊をシンボライズした線香護摩
燃え残った灰で吉凶を占う。
昔は祈祷を頼んだ家に伺って修法したものです。
それはさておき、
ある人から
みんなが小乗仏教の修行をして、しあわせになれば良い。
修行しない人を救うなんて、大乗仏教の驕りではないか。
といわれて、
なるほどなあ、と思いました。
そもそも、
小乗と大乗とは何が違うのでしょうか。
小乗は心の分析をするために、
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の六識を説き、
それぞれが眼,耳,鼻,舌,身,意の認識器官に依存して,
色 (物質) ,声,香,味,触,法 を認識する、
としますが、
大乗は、
さらに阿頼耶識(あらやしき・心の種子)、未那識(まなしき・自我)
の二つを加えて八識とします。
この識というのは妄想迷い煩悩であり、
これをトレーニングによって智慧に転換させます。
『十住心論』では、
自我とは、
色・受・想・行・識の五つの存在要素(五蘊)のみが仮に和合したものにすぎない、
とする声聞(しょうもん)の教えと、
根本的な迷いを断つために、新しい業が生起するのを完全に除く縁覚(えんがく)
の二つを小乗とします。(まとめて二乗と云う)
どちらも、実体的な自我の存在を否定していますが、
声聞と縁覚とでは、その瞑想の浅深に差があります。
声聞はただ迷い苦しみの現象を除くだけですが、
縁覚はその根本を断つ。
思想と実践方法が少し違う。
『三昧耶戒序』には、
このふたつは、とてつもなく長い修行の年月がかかるので、
気楽な気持ちで求めるべきではない、とあります。
そして、
小乗は、
自己の修行に終始するだけで、
他を利益する大悲のはたらきを欠く
と考えられています。
大乗に特徴的な考えかたが、
仏性とか如来蔵で、
だれでも本来、仏の性質・本性を持っている、
ということ。
この仏性を「トレーニングによって自由自在に発揮する」ことで、
小乗では滅するべき煩悩が残された状態でも、
苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける
としています。
大乗は基本的に本覚(ほんがく・元々覚っている)で
小乗は始覚(しがく・修行によって煩悩をうち破り、悟りの智慧が現れる)
なのも違いのひとつです。
この点では、
迷い煩悩と共に苦しみが始まるとするお釈迦さんの教えと大乗は、ちょっと違うものになります。
ところで、
『般若心経秘鍵』は、
弘法大師著作の中でも、のびのびと制限制約無く、リズムよく自由に書かれているので、
読んで楽しいものですが、
この中にも小乗大乗について書かれています。
縁覚 は、
師につかず、そよぐ風や揺れる花を縁として無常を観じ、
長い時間を経て根本的な迷いの種子を除く。
声聞 は、
苦を滅する道理を覚るために、不浄観などの瞑想をする。
大乗仏教のそれぞれを解説すると、
普賢菩薩の法門である華厳の教えは、
存在と存在が互いに溶け合い 、
存在と真理、真理と真理も互いに溶け合うと悟り、
文殊菩薩の法門である三論では、
不生不滅不断不常不一不異不去不来によって戯論を断ち、
絶対空を身証しようとする。
弥勒の法門・法相では、
眼に映る境界(耳鼻舌身意)が固定的に有るとする執著を破る。
とあります。
いずれにしても、
小乗大乗の違いは、
人の資質によって段階があるということで、
病に応じて薬があるように、
心のレベルに応じて教えがあります。
大切なのは、
薬の能書きを読むだけでは効果なく、
飲んで初めて効くように、
小乗でも大乗でも、修行して初めて意味があります。
それは、
表面だけではなく、本質を見通す眼を持つトレーニング です。
『秘鍵』には、
般若心経にある最初の「是大神呪」は声聞の真言、
「是大明呪」は縁覚の真言、「是無上呪」は大乗の真言、
「是無等等呪」は密教の真言であり、
「羯諦」は声聞、次の「羯諦」は縁覚、
「波羅羯諦」は大乗の修行の結果を指し、
「波羅僧羯諦」は、密教の修行の結果を明らかにし、
「菩提薩婆訶」は、総ての教えの究極的なさとりに入る意義を説明している
とあります。
大乗も小乗も、
人による、ということです。
燃え残った灰で吉凶を占う。
昔は祈祷を頼んだ家に伺って修法したものです。
それはさておき、
ある人から
みんなが小乗仏教の修行をして、しあわせになれば良い。
修行しない人を救うなんて、大乗仏教の驕りではないか。
といわれて、
なるほどなあ、と思いました。
そもそも、
小乗と大乗とは何が違うのでしょうか。
小乗は心の分析をするために、
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の六識を説き、
それぞれが眼,耳,鼻,舌,身,意の認識器官に依存して,
色 (物質) ,声,香,味,触,法 を認識する、
としますが、
大乗は、
さらに阿頼耶識(あらやしき・心の種子)、未那識(まなしき・自我)
の二つを加えて八識とします。
この識というのは妄想迷い煩悩であり、
これをトレーニングによって智慧に転換させます。
『十住心論』では、
自我とは、
色・受・想・行・識の五つの存在要素(五蘊)のみが仮に和合したものにすぎない、
とする声聞(しょうもん)の教えと、
根本的な迷いを断つために、新しい業が生起するのを完全に除く縁覚(えんがく)
の二つを小乗とします。(まとめて二乗と云う)
どちらも、実体的な自我の存在を否定していますが、
声聞と縁覚とでは、その瞑想の浅深に差があります。
声聞はただ迷い苦しみの現象を除くだけですが、
縁覚はその根本を断つ。
思想と実践方法が少し違う。
『三昧耶戒序』には、
このふたつは、とてつもなく長い修行の年月がかかるので、
気楽な気持ちで求めるべきではない、とあります。
そして、
小乗は、
自己の修行に終始するだけで、
他を利益する大悲のはたらきを欠く
と考えられています。
大乗に特徴的な考えかたが、
仏性とか如来蔵で、
だれでも本来、仏の性質・本性を持っている、
ということ。
この仏性を「トレーニングによって自由自在に発揮する」ことで、
小乗では滅するべき煩悩が残された状態でも、
苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける
としています。
大乗は基本的に本覚(ほんがく・元々覚っている)で
小乗は始覚(しがく・修行によって煩悩をうち破り、悟りの智慧が現れる)
なのも違いのひとつです。
この点では、
迷い煩悩と共に苦しみが始まるとするお釈迦さんの教えと大乗は、ちょっと違うものになります。
ところで、
『般若心経秘鍵』は、
弘法大師著作の中でも、のびのびと制限制約無く、リズムよく自由に書かれているので、
読んで楽しいものですが、
この中にも小乗大乗について書かれています。
縁覚 は、
師につかず、そよぐ風や揺れる花を縁として無常を観じ、
長い時間を経て根本的な迷いの種子を除く。
声聞 は、
苦を滅する道理を覚るために、不浄観などの瞑想をする。
大乗仏教のそれぞれを解説すると、
普賢菩薩の法門である華厳の教えは、
存在と存在が互いに溶け合い 、
存在と真理、真理と真理も互いに溶け合うと悟り、
文殊菩薩の法門である三論では、
不生不滅不断不常不一不異不去不来によって戯論を断ち、
絶対空を身証しようとする。
弥勒の法門・法相では、
眼に映る境界(耳鼻舌身意)が固定的に有るとする執著を破る。
とあります。
いずれにしても、
小乗大乗の違いは、
人の資質によって段階があるということで、
病に応じて薬があるように、
心のレベルに応じて教えがあります。
大切なのは、
薬の能書きを読むだけでは効果なく、
飲んで初めて効くように、
小乗でも大乗でも、修行して初めて意味があります。
それは、
表面だけではなく、本質を見通す眼を持つトレーニング です。
『秘鍵』には、
般若心経にある最初の「是大神呪」は声聞の真言、
「是大明呪」は縁覚の真言、「是無上呪」は大乗の真言、
「是無等等呪」は密教の真言であり、
「羯諦」は声聞、次の「羯諦」は縁覚、
「波羅羯諦」は大乗の修行の結果を指し、
「波羅僧羯諦」は、密教の修行の結果を明らかにし、
「菩提薩婆訶」は、総ての教えの究極的なさとりに入る意義を説明している
とあります。
大乗も小乗も、
人による、ということです。
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