覚鑁さんの『末代真言行者用心』には、
「いかなる心を発す者、必ず悉地を成就するや。謂く、深信ある者、よく悉地を得。いかなるを深信をいふ。謂く、久々に修行して法験を得ずと雖も、疑慮を生ぜず、退心を生ぜざるなり。かくの如くの人必定して悉地を成就す。或いは本尊、行者を試さんが為の故に、或いは諸天等、その信心の浅深を試むがために暫くもってこれを抑ふるが故に。或いは宿障重深なるが故に、暫く不成に似たりと雖も、まことによく成就すれども、自ら知らざるが故に。
或いは魔旬、妨を成して暫く覆蔽するが故に。かくの如き等の種種の因縁あるが故に、疑怠
すべからず。」
とある。
どのような心で修行すれば、悟りという願いが叶うのだろうか。
それは、
深く信じる心のある者が、願いを叶えることができる。
深く信じるということは、
長く修行して、たとえお蔭がない、効果が無いと感じても、
疑うことなく、決して止めずに修行を続けることである。
たゆまず続けていれば、必ず成就する。
なぜ、すぐに効果が表れないのか。
それは本尊が、
行者の信仰の度合いを確かめているのだろう。
また、
行者の業が妨げになり、長い目で見れば、いつの間にか願いが叶っているのに、
それに気がついていないのである。
だから、
疑うことなく修行を続けるべきである。
つまり、
淡々と続けること
不放逸であること
そうすれば、
苦境を乗り越え、悟りの願いが叶う。
「いかなる心を発す者、必ず悉地を成就するや。謂く、深信ある者、よく悉地を得。いかなるを深信をいふ。謂く、久々に修行して法験を得ずと雖も、疑慮を生ぜず、退心を生ぜざるなり。かくの如くの人必定して悉地を成就す。或いは本尊、行者を試さんが為の故に、或いは諸天等、その信心の浅深を試むがために暫くもってこれを抑ふるが故に。或いは宿障重深なるが故に、暫く不成に似たりと雖も、まことによく成就すれども、自ら知らざるが故に。
或いは魔旬、妨を成して暫く覆蔽するが故に。かくの如き等の種種の因縁あるが故に、疑怠
すべからず。」
とある。
どのような心で修行すれば、悟りという願いが叶うのだろうか。
それは、
深く信じる心のある者が、願いを叶えることができる。
深く信じるということは、
長く修行して、たとえお蔭がない、効果が無いと感じても、
疑うことなく、決して止めずに修行を続けることである。
たゆまず続けていれば、必ず成就する。
なぜ、すぐに効果が表れないのか。
それは本尊が、
行者の信仰の度合いを確かめているのだろう。
また、
行者の業が妨げになり、長い目で見れば、いつの間にか願いが叶っているのに、
それに気がついていないのである。
だから、
疑うことなく修行を続けるべきである。
つまり、
淡々と続けること
不放逸であること
そうすれば、
苦境を乗り越え、悟りの願いが叶う。
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