長野県飯田市立石にある高野山真言宗・千頭山 立石寺は、天安元年(857)開創。
今年で1160年になる伊那谷で最も古い寺であり、伊那西国三十三番札所の第一番札所。
立石寺という名の由来は、
「一夜のうちに七尺に余る青石大地より突出す、此等の因縁によって寺を立石と改む、立石村というのも同時なり・・・」と16世紀に書かれた立石寺縁起にある。
立石寺と云えば、芭蕉の句で有名な山形県の通称 山寺(宝珠山立石寺)が有名で、
こちらは円仁さんが開いた天台宗の寺。
両者のつながりは不明だが、
「飯田市・立石寺の伝広目天立像について」(『飯田市美術博物館研究紀要 14』 2004.4)
http:// ci.nii. ac.jp/e ls/cont ents110 0084482 68.pdf? id=ART0 0096903 74
によれば、本尊十一面観音は寺の創建より古い可能性があり、
寺の隣には比叡山の地主神である日枝神社(日吉神社)があることから、
何か関係があるのかもしれない。山寺の開創も貞観2年(860)と近い。
現在の立石寺本堂は江戸時代、領主・近藤重尭の再建とされており、堂内諸尊もその時に補修されたと思われるが、それ以降修復の様子はなく、国の重要美術品である本尊はじめ、仁王門の密迹金剛、執金剛神も修復が必要なレベルである。
本尊の十一面観世音菩薩は、平安時代中期~後期の作と考えられる秘仏。
この地域は、高森町発祥とされる市田柿とともに立石柿の産地で潤い、「柿の観音」と信仰されていた記録(絵馬)がある。
秘仏の前には前立ちの十一面立像があり、その両側に四天王をまつる。
十一面観音の周囲に四天王を配置するのは、東寺・食堂を始め作例は多い。
仏教の世界観に三界(さんがい)がある。
欲界 :欲望の働く世界
色界 :欲望の無い物質の世界
無色界:精神世界。
この三は共に迷いの世界で、この中を輪廻する。
その欲界に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つがあり、
天の中に六種類ある(六欲天と云う)
その下から(?)二番目の忉利天(とうりてん、三十三天とも云う)は須弥山上にあり、そこにおわす帝釈天に仕えて四方を守護するのが四天王。
忉利天は戒波羅蜜(智慧によって持戒の行が完成していること)の世界なので、禅定(心を静かにする瞑想修行)を護るのが四天王の役割であろうか。
灌頂などの儀式を護るのは十二天
修法の行者を護るのが四天王
と、僕は考えている。
また、『孔雀王呪経』などに、護摩壇には四天王を配する記述がある。この本堂も護摩壇である。
十一面観音はバラモン教の十一面の暴神・エーカダシャ・ルドラ(11の顔を持つもの)が由来と考えられるが、
『十一面観音神呪経』には、
十一面というのは心真言(神呪)のことであり、十一面観音という変化観音は形成されていない。
その十一は
十一倶胝の仏陀によって説かれたから、とする。倶胝(くてい)は数の単位で、10の7乗。
十一面の心真言は、「ブッダの大悲に入る智慧の真髄」と呼ばれ、
現在一般に唱えられている十一面観音の真言にも「キャロニキャ=大悲」とある。
立石寺本堂には聖天もまつられているが、
これは『十一面観音神呪経』の「身中障難の除去を目的とする息災法」に、
十一面観音と聖天を灌浴する
とあることからであろうか。
また、
十一面と聖天は、ヒンドゥーのシヴァとガネーシャの関係とつながりがあると考えられる。
それは、
上記のエーカダシャ・ルドラはシヴァ神の影響を受けており、
「Buddhist Thought and Ritual. Motilal Banarsi(2001)」には、
シヴァはウパーヤ(方便)として書かれている。
この方便は『観音経』に
「観音は広く智の方便を修して、十方の諸の国土に、刹として身を現ぜざること無し」
「世尊。観世音菩薩。云何遊此娑婆世界。云何而為衆生説法。方便之力。其事云何。」
として、観音がさまざまな身体になって説法することが書かれており、その中に大自在天(シヴァ神)も現れる。
十一面観音はもともとインド伝来の呪術的な仏であり、説かれている経典も、
『十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経』、『陀羅尼集経』、『十一面観音神呪経』 などのいわゆる修法の経典である。
内容は、
衆生救済
治病
降伏
息災(身中諸難の除去)
など、呪術的な作法が説かれる。
また、
胎蔵曼荼羅の蘇悉地院(両部不二:悟りの境地に達すること)に描かれる。これは利他の実践によって成就する。
観音は蓮華部院に描かれるが、
十一面は観音のなかでもとりわけ蓮華部の徳(すばらしき完成)が優れているので、蘇悉地院に配置されている。
このように現世利益の尊格と、瞑想修行による悟りの両面がある仏であるが、
前者は立像で、後者は坐像で現される。立石寺本尊は立像である。
いずれにしても、
密教に取り入れられることにより、現世利益によって安心を与え、悟りへ導く、という思想に変化するのはどの仏でも同じである。
さらに、
この尊の心真言は、病気や貧乏からの逃れることのみを祈るのではなく、「それもあるけれど」菩提心を呪文化したものである。
以上のように、
十一面観音、聖天、四天王をまつる本堂は、
密教寺院としては当たり前のことであるが、息災と懺悔と悟りの成就のために修法をする修行道場である、と云える。
今年で1160年になる伊那谷で最も古い寺であり、伊那西国三十三番札所の第一番札所。
立石寺という名の由来は、
「一夜のうちに七尺に余る青石大地より突出す、此等の因縁によって寺を立石と改む、立石村というのも同時なり・・・」と16世紀に書かれた立石寺縁起にある。
立石寺と云えば、芭蕉の句で有名な山形県の通称 山寺(宝珠山立石寺)が有名で、
こちらは円仁さんが開いた天台宗の寺。
両者のつながりは不明だが、
「飯田市・立石寺の伝広目天立像について」(『飯田市美術博物館研究紀要 14』 2004.4)
http://
によれば、本尊十一面観音は寺の創建より古い可能性があり、
寺の隣には比叡山の地主神である日枝神社(日吉神社)があることから、
何か関係があるのかもしれない。山寺の開創も貞観2年(860)と近い。
現在の立石寺本堂は江戸時代、領主・近藤重尭の再建とされており、堂内諸尊もその時に補修されたと思われるが、それ以降修復の様子はなく、国の重要美術品である本尊はじめ、仁王門の密迹金剛、執金剛神も修復が必要なレベルである。
本尊の十一面観世音菩薩は、平安時代中期~後期の作と考えられる秘仏。
この地域は、高森町発祥とされる市田柿とともに立石柿の産地で潤い、「柿の観音」と信仰されていた記録(絵馬)がある。
秘仏の前には前立ちの十一面立像があり、その両側に四天王をまつる。
十一面観音の周囲に四天王を配置するのは、東寺・食堂を始め作例は多い。
仏教の世界観に三界(さんがい)がある。
欲界 :欲望の働く世界
色界 :欲望の無い物質の世界
無色界:精神世界。
この三は共に迷いの世界で、この中を輪廻する。
その欲界に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つがあり、
天の中に六種類ある(六欲天と云う)
その下から(?)二番目の忉利天(とうりてん、三十三天とも云う)は須弥山上にあり、そこにおわす帝釈天に仕えて四方を守護するのが四天王。
忉利天は戒波羅蜜(智慧によって持戒の行が完成していること)の世界なので、禅定(心を静かにする瞑想修行)を護るのが四天王の役割であろうか。
灌頂などの儀式を護るのは十二天
修法の行者を護るのが四天王
と、僕は考えている。
また、『孔雀王呪経』などに、護摩壇には四天王を配する記述がある。この本堂も護摩壇である。
十一面観音はバラモン教の十一面の暴神・エーカダシャ・ルドラ(11の顔を持つもの)が由来と考えられるが、
『十一面観音神呪経』には、
十一面というのは心真言(神呪)のことであり、十一面観音という変化観音は形成されていない。
その十一は
十一倶胝の仏陀によって説かれたから、とする。倶胝(くてい)は数の単位で、10の7乗。
十一面の心真言は、「ブッダの大悲に入る智慧の真髄」と呼ばれ、
現在一般に唱えられている十一面観音の真言にも「キャロニキャ=大悲」とある。
立石寺本堂には聖天もまつられているが、
これは『十一面観音神呪経』の「身中障難の除去を目的とする息災法」に、
十一面観音と聖天を灌浴する
とあることからであろうか。
また、
十一面と聖天は、ヒンドゥーのシヴァとガネーシャの関係とつながりがあると考えられる。
それは、
上記のエーカダシャ・ルドラはシヴァ神の影響を受けており、
「Buddhist Thought and Ritual. Motilal Banarsi(2001)」には、
シヴァはウパーヤ(方便)として書かれている。
この方便は『観音経』に
「観音は広く智の方便を修して、十方の諸の国土に、刹として身を現ぜざること無し」
「世尊。観世音菩薩。云何遊此娑婆世界。云何而為衆生説法。方便之力。其事云何。」
として、観音がさまざまな身体になって説法することが書かれており、その中に大自在天(シヴァ神)も現れる。
十一面観音はもともとインド伝来の呪術的な仏であり、説かれている経典も、
『十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経』、『陀羅尼集経』、『十一面観音神呪経』 などのいわゆる修法の経典である。
内容は、
衆生救済
治病
降伏
息災(身中諸難の除去)
など、呪術的な作法が説かれる。
また、
胎蔵曼荼羅の蘇悉地院(両部不二:悟りの境地に達すること)に描かれる。これは利他の実践によって成就する。
観音は蓮華部院に描かれるが、
十一面は観音のなかでもとりわけ蓮華部の徳(すばらしき完成)が優れているので、蘇悉地院に配置されている。
このように現世利益の尊格と、瞑想修行による悟りの両面がある仏であるが、
前者は立像で、後者は坐像で現される。立石寺本尊は立像である。
いずれにしても、
密教に取り入れられることにより、現世利益によって安心を与え、悟りへ導く、という思想に変化するのはどの仏でも同じである。
さらに、
この尊の心真言は、病気や貧乏からの逃れることのみを祈るのではなく、「それもあるけれど」菩提心を呪文化したものである。
以上のように、
十一面観音、聖天、四天王をまつる本堂は、
密教寺院としては当たり前のことであるが、息災と懺悔と悟りの成就のために修法をする修行道場である、と云える。
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