「ごんもうりょぜつ」
と読みます。
言葉で表現することもできず、思慮も絶したもの。絶対の悟りの世界
のこと。
信仰には、
神や仏が自分の外(どこか)にいて、それを信じる。
神仏は自分の心の中にいて、それを体験体得する。
の二種類があります。
前者は、
悪いことはしない、悪い思いは持たないようにして、善を求める。
後者は、
悪いこと、悪い思いは、善を反映させるためにあり、
どちらも真実である。
という立場をとることが多い。
言亡慮絶は後者で体験する世界です。
いくつか引用すると、
如来の奥地、さらに癈詮照潤の心地に開け、仏樹王の牙、始めて言亡慮絶の空性に生ず。(『大日経開題』)
言亡慮絶の理をばすなはち言辞相寂滅に証し、悉有仏性の旨をばすなはち無一不成仏の句に成ず。(『法華経秘釈』)
此の観に住しおわって、字義を失し、言亡慮絶して良く久しくして定を出よ(『不動次第』)
つまり、
瞑想修行は、言亡慮絶すること。
この悟り(言亡慮絶)の世界は、具体的にどういうものかを質問したことがあります。
恩師田中先生は、
広々として風通しの良い、仕切りの無い世界
光り輝き澄み切った世界
と云い、
K師は、
喜怒哀楽は勿論、楽も苦も、幸不幸も無く、全く波の無い寂静の世界
と教えてくれました。
『華厳経』では、
成道(悟り)の瞬間を、
波が一切無くなって鏡のように澄み渡った大海、
に喩えています。
例えば、満月を観想して、
それが法界に周遍して、全体になれば形がなくなる。
そして、 唯明朗のみとなる。
そこには何もなく、身体も、心もない。
不生にして、虚空の如し。
何も無いから無分別で、妄想も無く、諸仏も姿はない。
無相(姿形がない)ならば、
思慮も言葉も亡失する。
覚鑁さんの『阿字観』には、病者の観法として、
此の阿字を観じさせ玉ひて、至極の場は、言亡慮絶とて、無念に成り候也
とあります。
つまり、
息絶える時に至っては、もはや阿字の真言も絶え、悟り(自心を知る)の理法を念慮することもなくなって、ただ無念無想法体そのものとなる、
だから、
何かを思わなくても、口を開けば常に自然と「阿」と発する、
これはまさに阿の真言を唱えていること。
ただ口を開いて呼吸をするだけで、それが阿字になる。
『阿』は宇宙の真如を現す梵字。
もうだめだ、オレは死ぬ
というような時、
世話になったな、今までありがとう
そういう気持ちになって、ただ口を開けて呼吸していれば、
言亡慮絶になる、ということで良いかな。
覚鑁さんの最期は『大悲の海に 覚鑁上人伝』によると、
眠るが如く薪尽き、入寂して燈消ゆ
と弟子の覚満が記している。
そして、
臨終の時がくると、病苦は止まったようで、
息を引き取るまで意識はあきらかで、
手に法印をむすび、口に真言を誦し、本尊の前に端坐のまま遷化した、
とあります。
そこは、言亡慮絶の世界だったのだろうか。
と読みます。
言葉で表現することもできず、思慮も絶したもの。絶対の悟りの世界
のこと。
信仰には、
神や仏が自分の外(どこか)にいて、それを信じる。
神仏は自分の心の中にいて、それを体験体得する。
の二種類があります。
前者は、
悪いことはしない、悪い思いは持たないようにして、善を求める。
後者は、
悪いこと、悪い思いは、善を反映させるためにあり、
どちらも真実である。
という立場をとることが多い。
言亡慮絶は後者で体験する世界です。
いくつか引用すると、
如来の奥地、さらに癈詮照潤の心地に開け、仏樹王の牙、始めて言亡慮絶の空性に生ず。(『大日経開題』)
言亡慮絶の理をばすなはち言辞相寂滅に証し、悉有仏性の旨をばすなはち無一不成仏の句に成ず。(『法華経秘釈』)
此の観に住しおわって、字義を失し、言亡慮絶して良く久しくして定を出よ(『不動次第』)
つまり、
瞑想修行は、言亡慮絶すること。
この悟り(言亡慮絶)の世界は、具体的にどういうものかを質問したことがあります。
恩師田中先生は、
広々として風通しの良い、仕切りの無い世界
光り輝き澄み切った世界
と云い、
K師は、
喜怒哀楽は勿論、楽も苦も、幸不幸も無く、全く波の無い寂静の世界
と教えてくれました。
『華厳経』では、
成道(悟り)の瞬間を、
波が一切無くなって鏡のように澄み渡った大海、
に喩えています。
例えば、満月を観想して、
それが法界に周遍して、全体になれば形がなくなる。
そして、 唯明朗のみとなる。
そこには何もなく、身体も、心もない。
不生にして、虚空の如し。
何も無いから無分別で、妄想も無く、諸仏も姿はない。
無相(姿形がない)ならば、
思慮も言葉も亡失する。
覚鑁さんの『阿字観』には、病者の観法として、
此の阿字を観じさせ玉ひて、至極の場は、言亡慮絶とて、無念に成り候也
とあります。
つまり、
息絶える時に至っては、もはや阿字の真言も絶え、悟り(自心を知る)の理法を念慮することもなくなって、ただ無念無想法体そのものとなる、
だから、
何かを思わなくても、口を開けば常に自然と「阿」と発する、
これはまさに阿の真言を唱えていること。
ただ口を開いて呼吸をするだけで、それが阿字になる。
『阿』は宇宙の真如を現す梵字。
もうだめだ、オレは死ぬ
というような時、
世話になったな、今までありがとう
そういう気持ちになって、ただ口を開けて呼吸していれば、
言亡慮絶になる、ということで良いかな。
覚鑁さんの最期は『大悲の海に 覚鑁上人伝』によると、
眠るが如く薪尽き、入寂して燈消ゆ
と弟子の覚満が記している。
そして、
臨終の時がくると、病苦は止まったようで、
息を引き取るまで意識はあきらかで、
手に法印をむすび、口に真言を誦し、本尊の前に端坐のまま遷化した、
とあります。
そこは、言亡慮絶の世界だったのだろうか。
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