今回は雑談です。
信心とは「まじり気」の無い心、純粋で澄んだ心のことです。
そして、宗教は内面の浄化を目的としています。
ですから、信仰が深まれば、人は少しづつ折り目正しくなり、他の幸せを考える善い人になります。
善人の用心とは、
他を先とし、己を後にすること。
密教の三昧耶戒では
自分自身や自分の恩人を見ることと同じように、他人のことも見る
としています。
自分を見て自分を調える。
自分が自分が、という自分への執着を減らすことによって、他への気配りが拡大する。
というのが信仰の利点であります。
ある会合で、
ある人が僕を手招きして、
顔を近づけてささやきました。
あのな、私はお大師さんに会ったんじゃ。
でな、コレコレこういうことを言われたんじゃ。
と。
こういうことはあるんですよね。
お大師さんばかりでなく、お釈迦さまや、観音さまや、お不動さんに会う、
ということが。
お釈迦さまから始まった仏教は、その後いろいろと変化してきました。
お釈迦さまの言われたとおりにしようというグループや、
地域や時代によって変わっても良いのだ、とするグループができ、
お大師さんが唐から持ち帰った密教と、
その後の人たちが持ち帰ったものとは、唐での流行りが違うので、これまたちょっと違う密教になります。
でも、どれも目的は悟りであり、そのために修行をする、ということに変わりはありません。
たどり着くところは同じで、その行きかた、進みかた、手順は違っていますが、どれでも構わない。
お釈迦さまは2500年くらい前に、80年の生涯を送られた、とされています。場所は今のインド。
お釈迦さんはとても素晴らしい人でしたが、遠い昔で、遠い場所で、
僕らとはずいぶん隔たりがあります。
そんな中で、時間的空間的に限定されたお釈迦さまその人、ではなく、お釈迦さまが悟った内容を人格化するような動きがでてきました。
信仰の対象になると、その人は拡大解釈されて死なない、ということが多いです。
お釈迦さまも、お大師さんも。キリストの復活というのも、そういうことでしょうね。
お釈迦さまが、肉体を持つその人個人ではなく、時間や空間を超えて、僕らがいつでもどこでも会えるようになる。
阿弥陀さんやお薬師さんも同じように現れるのでしょうね。
仏さまにはいくつかの種類があります。仏身(ぶっしん)といいます。
顕教で分類しているのは三身(さんじん)。
1、法身(ほっしん)
宇宙の真理・真如そのもの、仏性。これは見えない聞こえない触れない、姿も無い。
2、報身(ほうじん)
仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿。阿弥陀さんなどですね。
3、応身(おうじん)
この世において悟り、人々の前に現れる姿。お釈迦さまです。
密教では少し違った分類をします。
1、自性法身(じしょうほっしん)
この世にあるものすべてに象徴されるもの。心によって認識されるすべての作用であらわされるもの。宇宙の大生命それ自体を人格としている仏。
大日如来です。
2、受用法身(じゅゆうほっしん)
大日如来が相対的な世界に現れたもの。
曼荼羅の中央におわす、四仏四菩薩。
3、変化法身(へんげほっしん)
それぞれの素質傾向に応じて真理を説くもの。
例えばお釈迦さまやお地蔵さん。
4、等流法身(とうるほっしん)
真理を説いて聞かせる相手と同じ姿をとって現れる。
これはもう、ありとあらゆるものが仏ということ。動物も魔物も何でもかんでも。
仏さまの形をしていない仏。
密教では全部法身なんです。だから、見える聞こえる触ることもできる。姿形がある。
あたかも太陽の光によってあらゆる命がはぐくまれるように、法身の光は一切を照らし、衆生の善を生じる働きを開発しています。
こうした智慧の働きを慈悲と言います。
だから、世の中は、仏の自覚さえよみがえれば慈悲であふれ、平和になります。
そして、
一切のものがそれぞれに、それ自身と対峙することによって真理を説いています。
鳥の声も雨音も法身の説法なんです。
その法身の言葉が真言。
だから、僕らは真言を唱えて仏になろうとします。
そして、人はそれぞれの時期(自分の心の段階)において、それぞれの仏になります。
いたるところで法身が説法しているから、現世利益も加持祈祷も成り立ちます。
顕教では、
煩悩を滅して菩提(さとり)となる
としています。
密教は、
煩悩も菩提も同じもの、同じ心から作られているもの
とします。
僕らの心の中にある仏も、
時には地獄とか煩悩と呼ばれることにもなります。
どちらも物事の裏表に過ぎなくて、すべてはもともと満徳を円満している
というのが密教の立場。
僕らの心の中にはいくつもの対立があります。
原因と結果
迷いと悟り
天界と地獄
仏と我
好きと嫌い
これらの区別差別が無くなって、どちらもが同じと知れば、自在で堅固な心になり、一切の魔から離れることができます。
これらの区別差別が迷い苦しみの原因ですから。
人も動物も草木も何もかもが仏である
と多くの仏者が言いますが、
密教では、それらを構成している物質も仏と見ます。
僕を構成している元素も仏なんです。
だとすれば、
煩悩も菩提も仏であり、煩悩即菩提。
そのまま菩提なんです。
これは、放逸な生活の中では怠惰とわがままを許してしまいがちですから、心を調え、生活を正しくして、修行してこそ、そのまま仏です。
心を訓練すると、区別差別をしないで、ただ見るだけ、ということができるようになります。
月は悟りの象徴だけれど、そうすると月以外は汚れたものになりかねない。
だから、
ただ月をみる。
信心とは「まじり気」の無い心、純粋で澄んだ心のことです。
そして、宗教は内面の浄化を目的としています。
ですから、信仰が深まれば、人は少しづつ折り目正しくなり、他の幸せを考える善い人になります。
善人の用心とは、
他を先とし、己を後にすること。
密教の三昧耶戒では
自分自身や自分の恩人を見ることと同じように、他人のことも見る
としています。
自分を見て自分を調える。
自分が自分が、という自分への執着を減らすことによって、他への気配りが拡大する。
というのが信仰の利点であります。
ある会合で、
ある人が僕を手招きして、
顔を近づけてささやきました。
あのな、私はお大師さんに会ったんじゃ。
でな、コレコレこういうことを言われたんじゃ。
と。
こういうことはあるんですよね。
お大師さんばかりでなく、お釈迦さまや、観音さまや、お不動さんに会う、
ということが。
お釈迦さまから始まった仏教は、その後いろいろと変化してきました。
お釈迦さまの言われたとおりにしようというグループや、
地域や時代によって変わっても良いのだ、とするグループができ、
お大師さんが唐から持ち帰った密教と、
その後の人たちが持ち帰ったものとは、唐での流行りが違うので、これまたちょっと違う密教になります。
でも、どれも目的は悟りであり、そのために修行をする、ということに変わりはありません。
たどり着くところは同じで、その行きかた、進みかた、手順は違っていますが、どれでも構わない。
お釈迦さまは2500年くらい前に、80年の生涯を送られた、とされています。場所は今のインド。
お釈迦さんはとても素晴らしい人でしたが、遠い昔で、遠い場所で、
僕らとはずいぶん隔たりがあります。
そんな中で、時間的空間的に限定されたお釈迦さまその人、ではなく、お釈迦さまが悟った内容を人格化するような動きがでてきました。
信仰の対象になると、その人は拡大解釈されて死なない、ということが多いです。
お釈迦さまも、お大師さんも。キリストの復活というのも、そういうことでしょうね。
お釈迦さまが、肉体を持つその人個人ではなく、時間や空間を超えて、僕らがいつでもどこでも会えるようになる。
阿弥陀さんやお薬師さんも同じように現れるのでしょうね。
仏さまにはいくつかの種類があります。仏身(ぶっしん)といいます。
顕教で分類しているのは三身(さんじん)。
1、法身(ほっしん)
宇宙の真理・真如そのもの、仏性。これは見えない聞こえない触れない、姿も無い。
2、報身(ほうじん)
仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿。阿弥陀さんなどですね。
3、応身(おうじん)
この世において悟り、人々の前に現れる姿。お釈迦さまです。
密教では少し違った分類をします。
1、自性法身(じしょうほっしん)
この世にあるものすべてに象徴されるもの。心によって認識されるすべての作用であらわされるもの。宇宙の大生命それ自体を人格としている仏。
大日如来です。
2、受用法身(じゅゆうほっしん)
大日如来が相対的な世界に現れたもの。
曼荼羅の中央におわす、四仏四菩薩。
3、変化法身(へんげほっしん)
それぞれの素質傾向に応じて真理を説くもの。
例えばお釈迦さまやお地蔵さん。
4、等流法身(とうるほっしん)
真理を説いて聞かせる相手と同じ姿をとって現れる。
これはもう、ありとあらゆるものが仏ということ。動物も魔物も何でもかんでも。
仏さまの形をしていない仏。
密教では全部法身なんです。だから、見える聞こえる触ることもできる。姿形がある。
あたかも太陽の光によってあらゆる命がはぐくまれるように、法身の光は一切を照らし、衆生の善を生じる働きを開発しています。
こうした智慧の働きを慈悲と言います。
だから、世の中は、仏の自覚さえよみがえれば慈悲であふれ、平和になります。
そして、
一切のものがそれぞれに、それ自身と対峙することによって真理を説いています。
鳥の声も雨音も法身の説法なんです。
その法身の言葉が真言。
だから、僕らは真言を唱えて仏になろうとします。
そして、人はそれぞれの時期(自分の心の段階)において、それぞれの仏になります。
いたるところで法身が説法しているから、現世利益も加持祈祷も成り立ちます。
顕教では、
煩悩を滅して菩提(さとり)となる
としています。
密教は、
煩悩も菩提も同じもの、同じ心から作られているもの
とします。
僕らの心の中にある仏も、
時には地獄とか煩悩と呼ばれることにもなります。
どちらも物事の裏表に過ぎなくて、すべてはもともと満徳を円満している
というのが密教の立場。
僕らの心の中にはいくつもの対立があります。
原因と結果
迷いと悟り
天界と地獄
仏と我
好きと嫌い
これらの区別差別が無くなって、どちらもが同じと知れば、自在で堅固な心になり、一切の魔から離れることができます。
これらの区別差別が迷い苦しみの原因ですから。
人も動物も草木も何もかもが仏である
と多くの仏者が言いますが、
密教では、それらを構成している物質も仏と見ます。
僕を構成している元素も仏なんです。
だとすれば、
煩悩も菩提も仏であり、煩悩即菩提。
そのまま菩提なんです。
これは、放逸な生活の中では怠惰とわがままを許してしまいがちですから、心を調え、生活を正しくして、修行してこそ、そのまま仏です。
心を訓練すると、区別差別をしないで、ただ見るだけ、ということができるようになります。
月は悟りの象徴だけれど、そうすると月以外は汚れたものになりかねない。
だから、
ただ月をみる。
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