仏教思想の特徴を表したもにに四法印(しほういん)があります。
1、諸行無常(しょぎょうむじょう) :すべてのものは常ではなく、変化している。
2、諸法無我(しょほうむが) :すべてのものは、実体がないものである。
3、一切皆苦(いっさいかいく) :すべての作られたものは、苦しみである。
4、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) :涅槃は安らぎである。
このうち3、を除いたものを三法印と言います。
1、諸行無常
お釈迦さまの伝説で、四門出遊(しもんしゅつゆう)というお話があります。
釈迦族の王子さまだったお釈迦さまは、
ある日、お城の東門を出た時、年老いた人に出会い、自分もやがて年をとることを痛感します。
南の門を出た時には病人に出会い、病に苦しむ日が自分にもやがて来ることを思い、
西の門を出た時は死人を見て、自分にも必ず死が訪れることを知ります。
北門を出た時、出家修行者に出会い、その平安で静かな姿に感動します。
お釈迦さまは、人も時間も何もかもが常住ではなく変化していること、つまり無常を知ります。
いつまでも元気で健康でいるわけではない、いつか自分も死ぬ、と。
ですから、
今、この場所で、この身体で、同じ相手がいて、同じ気持ちで、ということは無いわけです。
でもしかし、
無常を知ることで、
今、この状態にこだわり、とらわれることに意味は無い、と理解します。無くなってしまうのだから。
そして、
変わってしまう毎日の自分なのだから、常により良くなるように努力精進しなくてはいけない。
『遺教経』には、
「世はみな無常なり。会うものは必ず離るることあり。まさに勤めて精進して早く解脱を求めよ」
とあります。
僕らはいつも「無常観」を持っています。
あの人はいなくなってしまった。
あの風景はもう見ることはできない。
その時代が懐かしい
などと。
私たちが見たり聞いたり感じたりするすべてのものは、縁と条件によってできたものです。
もしそれらが、変化せず同一であれば、永遠に変化は起きないことになります。
みんな変化している。
空も海も、自分の身体も止まってはいない。成長するものもあれば、壊れていくものもあります。
電気も水も流れ、植物も少しづつ変化しています。
止まっているように見える石ころや紙きれも、少しづつ摩耗したり劣化しています。
心も同じく、好きが嫌いになったり、迷いが悟りにと変化しています。
無常ゆえに病気になったり老いたり死んだり、好きな人と別れたりという苦しみがありますが、無常ゆえの楽しみもあります。
子どもが生まれて成長するのも、お米や大根がおいしくなるのも、
僕の知識が少しづつ智慧になるのも、
諸行無常だからです。
2、諸法無我
あらゆるものが無常なら、あらゆるものは無我です。
変化しているなかで、変化しない自分や「我」など存在しません。
僕の中のどこに「我」があるのでしょうか。
分解してもどこにもない。
ただし、悟るのは、幸せになるのは、また他人を救うのは、身体がある自分ですから、この身体は大切にするべきです。
これこそが「自分だ」というものは存在しません。
だからこそ、
自分や我というのものは、世界や宇宙のすべてとつながった、壮大な錯覚なのです。
自分でないものも無我ですから、その間に仕切りや境目はありません。
3、涅槃寂静
涅槃はサンスクリット語の「ニルヴァーナ parinirvāṇa」の訳語で、火が吹き消された状態のこと。
苦の原因となる煩悩迷いが吹き消された状態=さとり のことです。
そこは静かで穏やか。真の楽があります。
無常と無我を知ることで、心は涅槃寂静になります。
4、一切皆苦
無常で無我なのに、「自分が」とか「自分の身体」とか「自分のもの」などと執着することから苦が生じます。
自分とか我はどこにもありません。
この執着の炎を吹き消せば、心の苦しみは解決できます。
病気でも死でも、好きな人との別れでも、欲しいものが手に入らなくても、無常無我を知れば、それを心が苦や楽として作り出さず、迷いから離れます。
精神的な「苦しみ」は、無常、無我、縁起という智慧の光によって姿を消します。
無常であり無我ですから、「苦」も実体が無いのです。心が作り出している概念にすぎません。
このように、
実際には無いものを有ると考えるのが、迷い・苦で、仏教ではそれを無明(むみょう)と言います。
___________________________________
【修行してみる】
○ 読経
人は心に思ったことを言葉にして、言葉にしたことを行動に移します。
この、身体、言葉、心を三業といい、仏のそれを三密といいます。
密教では、全ては仏を内在していますから、僕らの身体、言葉、心は三密です。
お経を唱える時、
数息観のように、長い息の上にお経の言葉を載せるつもりで唱えてみます。
息つぎに決まりありませんから、自分の息が続くように唱えます。
お経は節をつけず、雨だれのようなリズムで唱えます。
誰かと一緒に唱える時は、耳で唱えます。
気を配りながら一緒に唱える、ということ。
そして、暗記していても経本は手放さないで唱えます。
意味は文字から伝わります。
読経だけでも心が静かになり、功徳をつむことができます。
それは仏の言葉ですから。
1、諸行無常(しょぎょうむじょう) :すべてのものは常ではなく、変化している。
2、諸法無我(しょほうむが) :すべてのものは、実体がないものである。
3、一切皆苦(いっさいかいく) :すべての作られたものは、苦しみである。
4、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) :涅槃は安らぎである。
このうち3、を除いたものを三法印と言います。
1、諸行無常
お釈迦さまの伝説で、四門出遊(しもんしゅつゆう)というお話があります。
釈迦族の王子さまだったお釈迦さまは、
ある日、お城の東門を出た時、年老いた人に出会い、自分もやがて年をとることを痛感します。
南の門を出た時には病人に出会い、病に苦しむ日が自分にもやがて来ることを思い、
西の門を出た時は死人を見て、自分にも必ず死が訪れることを知ります。
北門を出た時、出家修行者に出会い、その平安で静かな姿に感動します。
お釈迦さまは、人も時間も何もかもが常住ではなく変化していること、つまり無常を知ります。
いつまでも元気で健康でいるわけではない、いつか自分も死ぬ、と。
ですから、
今、この場所で、この身体で、同じ相手がいて、同じ気持ちで、ということは無いわけです。
でもしかし、
無常を知ることで、
今、この状態にこだわり、とらわれることに意味は無い、と理解します。無くなってしまうのだから。
そして、
変わってしまう毎日の自分なのだから、常により良くなるように努力精進しなくてはいけない。
『遺教経』には、
「世はみな無常なり。会うものは必ず離るることあり。まさに勤めて精進して早く解脱を求めよ」
とあります。
僕らはいつも「無常観」を持っています。
あの人はいなくなってしまった。
あの風景はもう見ることはできない。
その時代が懐かしい
などと。
私たちが見たり聞いたり感じたりするすべてのものは、縁と条件によってできたものです。
もしそれらが、変化せず同一であれば、永遠に変化は起きないことになります。
みんな変化している。
空も海も、自分の身体も止まってはいない。成長するものもあれば、壊れていくものもあります。
電気も水も流れ、植物も少しづつ変化しています。
止まっているように見える石ころや紙きれも、少しづつ摩耗したり劣化しています。
心も同じく、好きが嫌いになったり、迷いが悟りにと変化しています。
無常ゆえに病気になったり老いたり死んだり、好きな人と別れたりという苦しみがありますが、無常ゆえの楽しみもあります。
子どもが生まれて成長するのも、お米や大根がおいしくなるのも、
僕の知識が少しづつ智慧になるのも、
諸行無常だからです。
2、諸法無我
あらゆるものが無常なら、あらゆるものは無我です。
変化しているなかで、変化しない自分や「我」など存在しません。
僕の中のどこに「我」があるのでしょうか。
分解してもどこにもない。
ただし、悟るのは、幸せになるのは、また他人を救うのは、身体がある自分ですから、この身体は大切にするべきです。
これこそが「自分だ」というものは存在しません。
だからこそ、
自分や我というのものは、世界や宇宙のすべてとつながった、壮大な錯覚なのです。
自分でないものも無我ですから、その間に仕切りや境目はありません。
3、涅槃寂静
涅槃はサンスクリット語の「ニルヴァーナ parinirvāṇa」の訳語で、火が吹き消された状態のこと。
苦の原因となる煩悩迷いが吹き消された状態=さとり のことです。
そこは静かで穏やか。真の楽があります。
無常と無我を知ることで、心は涅槃寂静になります。
4、一切皆苦
無常で無我なのに、「自分が」とか「自分の身体」とか「自分のもの」などと執着することから苦が生じます。
自分とか我はどこにもありません。
この執着の炎を吹き消せば、心の苦しみは解決できます。
病気でも死でも、好きな人との別れでも、欲しいものが手に入らなくても、無常無我を知れば、それを心が苦や楽として作り出さず、迷いから離れます。
精神的な「苦しみ」は、無常、無我、縁起という智慧の光によって姿を消します。
無常であり無我ですから、「苦」も実体が無いのです。心が作り出している概念にすぎません。
このように、
実際には無いものを有ると考えるのが、迷い・苦で、仏教ではそれを無明(むみょう)と言います。
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【修行してみる】
○ 読経
人は心に思ったことを言葉にして、言葉にしたことを行動に移します。
この、身体、言葉、心を三業といい、仏のそれを三密といいます。
密教では、全ては仏を内在していますから、僕らの身体、言葉、心は三密です。
お経を唱える時、
数息観のように、長い息の上にお経の言葉を載せるつもりで唱えてみます。
息つぎに決まりありませんから、自分の息が続くように唱えます。
お経は節をつけず、雨だれのようなリズムで唱えます。
誰かと一緒に唱える時は、耳で唱えます。
気を配りながら一緒に唱える、ということ。
そして、暗記していても経本は手放さないで唱えます。
意味は文字から伝わります。
読経だけでも心が静かになり、功徳をつむことができます。
それは仏の言葉ですから。
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