仏教は無我の教えです。
仏教以外の宗教や哲学では、自我や神や永遠なる自己、というような実体があると説くものがありますが、仏教では自我という執着(これが苦しみの原因)から離れることを目的とします。
あらゆる存在は縁と条件によって生滅しているだけ。
「我」とか「私」は、
色・受・想・行・識の五蘊(ごうん)が仮に集まってできたものに過ぎない、
というのが仏教の立場です。
色蘊(しきうん) - 肉体
受蘊(じゅうん) - 見る、聞くなどの感じること。
想蘊(そううん) - 見たものが何か、と思うこと、知識。
行蘊(ぎょううん) -~したい、などという意志
識蘊(しきうん) - おいしい、きれいなどと 認識すること。
これらが集まって仮に「私」というものがあるだけで、「私」そのものがどこかにあるのではありません。
このような無我を覚ることによって、煩悩(無明)を滅して涅槃(悟り、苦からの解脱)に至るこ
とが仏教の目的です。
さて、
お釈迦さまが亡くなってから、弟子たちがその教えをまとめた経典ができるようになりました。
亡くなられた直後なら、お釈迦さまから聞いた話の内容もはっきりしていましたが、100年後くらいから考えかたがいろいろと変わってきました。
また、お釈迦さまが説法した地も広いので、お話の内容も多岐にわたります。
その中で、
お釈迦さまの言われたことをガンコに守ろうとする派
時代や地域に合わせた形に替えようとする派
に分かれます。
前者は上座部(じょうざぶ)という、お釈迦さまの言われたことをきちんと守ろうとするグループ
後者は大衆部(だいしゅぶ)という、お釈迦さまの精神を守っていこうとするグループ。
この、上座部が所謂小乗仏教、大衆部が大乗仏教になります。
元々の思想の違いで二つにわかれたもので、小乗が大乗に変わる、ということではありません。
小乗の目的は阿羅漢(あらかん)になること。
供養を受けるにふさわしい人、尊敬されるべき人、という意味です。
修行を積んで、供養を受ける人。聖者ですね。
大乗仏教の目的は菩薩 。
自分の悟りと、自分以外の人を救うこと(上求菩提下化衆生)を目指します。
小乗では、
声聞(しょうもん):お釈迦さまから教えを受けて実践修行する。
縁覚(えんがく):お釈迦さまの教えをヒントに、縁起を観察し、ひとりで真理を覚ろうと努力する。
大乗の菩薩は、
衆生を教化済度する、という修行を通して悟りを目指す。
ほかにも大乗と小乗ではいくつかの違いがあります。
まず、上記の無我について。
小乗は「自分」は無我であるが、「自分」という概念以外の身体やモノには実体があるとします。
「私」というものはどこにも実体がないけれど、「私の身体」は実体がある、という立場。
大乗は、「自分」も「自分以外のもの」も無我である、と説きます。
「私」も「私の身体」も、いろいろなものが縁と条件により寄り集まって構成された仮の姿でしかない、と。
よくよく探してみても、そんなものはどこにもない、と。
拝む対象も、
小乗は一般的にお釈迦さまに帰依し、
大乗では三世十方におわすあらゆる仏を拝みます。
大乗は戒の形式より精神を重んじ、大衆的在家仏教であり、
小乗は戒律主義、専門化して出家主義
という傾向があります。
______________________________
【修行してみる】
○歯を磨き顔を洗い目を洗う
仏教は心の浄化を目的としますが、そのために身体の浄化も必要です。
汚れた口で経や真言を唱えることもできますが、きれいにした口と比べて濁ったり乱れたりします。
・歯を磨いて口を漱いだら
清浄の口を得て、仏法を誦持せんと思う。
・顔を洗ったら、
清浄の法門を得て、長く汚れなきことを願う。
・目を洗い、
眼の病は治癒し、十方に仏を見る、と思う。
それぞれ、歯を磨く真言、顔を洗う真言、目を洗う真言がありますが、明師に従い教わってください。
仏教以外の宗教や哲学では、自我や神や永遠なる自己、というような実体があると説くものがありますが、仏教では自我という執着(これが苦しみの原因)から離れることを目的とします。
あらゆる存在は縁と条件によって生滅しているだけ。
「我」とか「私」は、
色・受・想・行・識の五蘊(ごうん)が仮に集まってできたものに過ぎない、
というのが仏教の立場です。
色蘊(しきうん) - 肉体
受蘊(じゅうん) - 見る、聞くなどの感じること。
想蘊(そううん) - 見たものが何か、と思うこと、知識。
行蘊(ぎょううん) -~したい、などという意志
識蘊(しきうん) - おいしい、きれいなどと 認識すること。
これらが集まって仮に「私」というものがあるだけで、「私」そのものがどこかにあるのではありません。
このような無我を覚ることによって、煩悩(無明)を滅して涅槃(悟り、苦からの解脱)に至るこ
とが仏教の目的です。
さて、
お釈迦さまが亡くなってから、弟子たちがその教えをまとめた経典ができるようになりました。
亡くなられた直後なら、お釈迦さまから聞いた話の内容もはっきりしていましたが、100年後くらいから考えかたがいろいろと変わってきました。
また、お釈迦さまが説法した地も広いので、お話の内容も多岐にわたります。
その中で、
お釈迦さまの言われたことをガンコに守ろうとする派
時代や地域に合わせた形に替えようとする派
に分かれます。
前者は上座部(じょうざぶ)という、お釈迦さまの言われたことをきちんと守ろうとするグループ
後者は大衆部(だいしゅぶ)という、お釈迦さまの精神を守っていこうとするグループ。
この、上座部が所謂小乗仏教、大衆部が大乗仏教になります。
元々の思想の違いで二つにわかれたもので、小乗が大乗に変わる、ということではありません。
小乗の目的は阿羅漢(あらかん)になること。
供養を受けるにふさわしい人、尊敬されるべき人、という意味です。
修行を積んで、供養を受ける人。聖者ですね。
大乗仏教の目的は菩薩 。
自分の悟りと、自分以外の人を救うこと(上求菩提下化衆生)を目指します。
小乗では、
声聞(しょうもん):お釈迦さまから教えを受けて実践修行する。
縁覚(えんがく):お釈迦さまの教えをヒントに、縁起を観察し、ひとりで真理を覚ろうと努力する。
大乗の菩薩は、
衆生を教化済度する、という修行を通して悟りを目指す。
ほかにも大乗と小乗ではいくつかの違いがあります。
まず、上記の無我について。
小乗は「自分」は無我であるが、「自分」という概念以外の身体やモノには実体があるとします。
「私」というものはどこにも実体がないけれど、「私の身体」は実体がある、という立場。
大乗は、「自分」も「自分以外のもの」も無我である、と説きます。
「私」も「私の身体」も、いろいろなものが縁と条件により寄り集まって構成された仮の姿でしかない、と。
よくよく探してみても、そんなものはどこにもない、と。
拝む対象も、
小乗は一般的にお釈迦さまに帰依し、
大乗では三世十方におわすあらゆる仏を拝みます。
大乗は戒の形式より精神を重んじ、大衆的在家仏教であり、
小乗は戒律主義、専門化して出家主義
という傾向があります。
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【修行してみる】
○歯を磨き顔を洗い目を洗う
仏教は心の浄化を目的としますが、そのために身体の浄化も必要です。
汚れた口で経や真言を唱えることもできますが、きれいにした口と比べて濁ったり乱れたりします。
・歯を磨いて口を漱いだら
清浄の口を得て、仏法を誦持せんと思う。
・顔を洗ったら、
清浄の法門を得て、長く汚れなきことを願う。
・目を洗い、
眼の病は治癒し、十方に仏を見る、と思う。
それぞれ、歯を磨く真言、顔を洗う真言、目を洗う真言がありますが、明師に従い教わってください。
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