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[ 2024/11/21 19:01 | ]
8-2、仏とは何か
仏といえば、
 
お釈迦さまのこと

阿弥陀さまや観音さまなど、いろいろな仏さまのこと

礼拝対象の仏像仏画

日本では亡くなったご遺体も仏と言います。


仏は正字が「佛」

サンスクリット語「ブッダ」仏陀の略。仏陀は「覚者」「悟った者」

如来とも言います。

仏(如来)になれるけれど、人々のの救済のためなど敢えてなろうとしない人を菩薩という、

という解釈がありますが、それはちょっと違う。

民俗学・柳田國男の説では、盆の精霊棚に飾るホトギに由来した言葉

としています。

 

諸仏は法身にして、ただ肉身にはあらざるなり

と『十住毘婆裟論』にあります。

仏は

肉体としての、見える形ではなく、真理として観ずる

ということ。



お釈迦さま亡き後、

そのお姿を像にするのは失礼になる、

と考え、仏像というものはしばらく作られませんでしたが、

西洋文化の流入、ガンダーラ文化の発展とともに仏像が作られます。


『観仏三昧海経』には、

仏滅後、現前する仏なければ、まさに仏像を観ずべし 

如来の滅後、多くの衆生遇って仏を見ざるを持ってのゆえに、諸々の悪法をなす。
かくの如きの人、まさに像を観ずべし

もし像を観ずるものは、わが身(仏身)を観ずるに等しく


と、仏像を拝むことが主流になります。

 
仏の身体には、

仏足石に表されているように、足裏に輪形の相が現れている。

手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある。

直立したとき両手が膝に届き、手先が膝をなでるくらい長い。

身体から後光を放つ。

眉間に右巻きの白毫がる

などの、三十二の大きな特徴と、

耳が肩まで届く程垂れ下がっている。(福耳)

のどに3本のしわがある。

眉が長い。

鼻の穴が見えない。

などの細かい八十の特徴があるとされています。
http://tobifudo.jp/newmon/shinbutu/32so.html


『秘蔵記』には

初心者はその三十二相、八十種好をもって仏を念ずべし 

中級者は法身(あらゆるものが仏の現れであるとする)をもって仏を念じる

上級者は、ありのままの姿(嫌いなものも厭うべきものも)を仏と念じ、貪りと執着を離れるべし

とあります。


密教では

仏は固定的静止的なものではなく、つねに一切を照らし、一切を生かし、一切を創造しつつある全一としての宇宙の生命体

と考えています。


そして、

真言などの文字、仏具などの象徴物、仏像仏画、山や川などのあらゆる存在

これらをすべて仏として、瞑想修行の本尊とします。


ですから、

ひとつとして仏でないものはない。 

ですから、あらゆるものに供養します。



あるとあらゆる一切のものを仏とし、その仏に奉仕し、それを供養する心構えを持って、一切に処するとき、

世界は平安でみんなが悟りを得る曼荼羅世界になります。

 世界は仏によって成立している。 




人は身体の中に、本来清らかな仏たるべき性格をそなえている (『秘藏記』)


心が平静で正しければ、真理を見、仏さまを拝むことができる。鏡がすべてをありのままに写し出すようなものである。(『宗秘論』)


諸仏は宇宙そのものであるから、わが身はその中心にいるのであり、自分も宇宙そのものであるから、諸仏は我々の中におられるのである。(『理観啓白文』) 

仏さまとは真理を悟ったかたをいい、衆生とはものの真相を知らぬもののことである。(『声字義』)

多くのものにとりかこまれて中央に仏さまがおられる。仏さまとはだれのことか、自分の本心の名である。(『慕仙詩』)


仏とは本より具わっている自分の心の徳である。(『中寿感興詩』)


悟りの究極を仏と云う 。(『入忌日料物願文』)


仏を求めるならば、自分自身の中に求むべきである。仏と自分と同体であるからである。 (『答求理趣釈経書』)


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[ 2015/03/01 17:12 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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