お大師さんの『声字実相義』には、
如来は
見えるものによって見えないものを、
形あるものによって形なきものを
というように、必ず何らかの意味を外に表現する、広い意味の文字によって説法している。
その文字は、
音声の屈曲、目に見える形、香り、味といろいろある。
その文字は、見るもの、聞くもの、香るもの、味わうもの、感じるものの世界がその主体
世界の音声、言語、文字は悉く実相で、それは大日如来の説法にほかならない
とあります。
この世のすべての音・声・姿形は真言=仏の説法である、ということ。
また
『般若心経秘鍵』には、
如来の説法に二種あり
顕教では一般的な言葉で説き
密教の素質があるものには陀羅尼を説く
陀羅尼は多くの深い意味を持っている
とあります。
真言は、
サンスクリット語・マントラ(mantra)のこと。
お大師さんの師の師・不空三蔵の訳。それ以前は呪と訳しました。
仏菩薩が説いた言葉、聖なる言葉、真実語
という意味。
陀羅尼は、
サンスクリット語・ダーラニー(dhāraṇī)の音訳で、
意味からは「総持」と訳します。すべての善を保持し、すべての悪を抑えること。
記憶を保持する能力があり、瞑想のための呪句で、経典読誦の代りともされています。
両者の内容性質に明確な区別は無く、
一般的に、真言は比較的短く、陀羅尼は長い。でも、例外はあります。
真言も陀羅尼も、漢訳日本語訳せずに、梵語・サンスクリット語のまま唱えます。
それはなぜかと言えば、
1、秘密のため 修行が進んだものに対してのみ聞かせる
2、多義のため たくさんの意味があるので、一つに訳せない。
3、支那に無い言葉、概念のために訳せない
4、先例によって訳さない
5、尊重するために訳さない
真言密教では、
時間を経ずとも今、この身のままで悟れる。
その悟りの世界は常に大日如来が説法している。
その境地は言葉で説明することができる。
と言う立場ですが、
その言葉が真言や陀羅尼です。
般若心経の最後にある「ギャーテー・ギャーテー・ハーラーギャーテ・ハラソーギャテー・ボジーソワカ」も真言ですが、
「真言とは不思議なものである。心に思い浮かべつつ唱えれば、迷いを払ってくれる。
ひとつの文字に多くの真理が含まれ、生きているこの身体のままで、悟りの境地に達することができる 」
と『般若心経秘鍵』にあります。
真言陀羅尼で大切なことは、たくさんたくさん唱えることです。
その唱えかたに2種類あります。
堂内(お仏壇の前や道場)で、仏さまとふたりっきりになり、静かに心を込めて、ただ淡々と唱える 。
口から出た真言で自分が包まれるように。ひたすら唱えます。
もうひとつは、
いつでもでもどこでも、何をしながらでも唱える。
お風呂でもトイレでも、歩いていても、電車やバスの中でも。
口から出た真言が世界中に広がり、全ての人の功徳になるように。
__________________
【修行してみる】
〇食時作法
『テーラガーター』に、お釈迦さまの弟子・マハーカッサバ(摩訶迦葉)が食事をとる様子が描かれています。
「私は坐臥所から下って、托鉢のために都市に入った。食事をしている一人の癩病人に近づいて、彼の側に恭しく立った。
彼は、腐った手で、ひと握りの飯を捧げてくれた。彼がひと握りの飯を鉢に投げ入れてくれる時に、彼の指もまた千切れて、そこに落ちた。
壁の下の所で、わたしはそのひと握りの飯を食べた。それを食べている時にも、食べ終わった時にも、わたしには嫌悪の念は存在しなかった」
全く執着の無い食事、というものがここにあります。
食事は何のためにあるのか、
それは悟りのため、悟るために食べます。幸せになるために食べる。
ですから、食事も修行になります。
食事の前に合掌して以下を唱え、心を静かにして、さわやかな気持ちで食べましょう。
※「食時作法(じきじさほう)」
先、 金輪聖皇 宝祚延長 十方施主 災障消除 福寿増長
(きんりんじょうおう ほうそえんちょう じっぽうせしゅ さいしょうしょうじょう ふくじゅぞうちょう)
次 五観
一には、功の多少を計り、彼の来処を量れ
(ひとつには、こうのたしょうをはかり、かのらいしょをはかれ)
『意味:己の行為をかえりみ、この食べ物が如何にして作られたかを思う』
二には、己が徳行の全か闕か多か減かを忖れ
(ふたつには、おのがとくぎょうの ぜんかけつか、たかげんかを はかれ)
『意味:己の徳を積む行いが、完きか欠けているか多いか少ないかを思う』
三には、心を防ぎ、過を顕すは、三毒に過ぎず
(みつには、心をふせぎ、とがをあらわすは、さんどくにすぎず)
『意味:善心を妨げ過ちを起こすのは、貪りと瞋りと愚痴なることを思う』
四には、正しく良薬を事とし、形苦を済はんことを取れ
(よつには、まさしく りょうやくをこととし、ぎょうくをすくわんことをとれ)
『意味:食べ物はいのちを養う為であり、正しい食物を必要の限度にとることを思う』
五には、道業を成ぜんが為なり、世報は意に非ず
(いつつには、どうごうをじょうぜんがためなり、せほうはいにあらず)
『意味:自他ともに幸せになることを目標にして、徒に世の栄達を願わざることを思う』
次 正食偈
若飯食時 当願衆生 禅悦為食 法喜充満
(にゃくぼんじきじ とうがんしゅじょう ぜんねついじき ほうきじゅうまん)
『意味:食事は、 悟りの智慧を養うためであり、悟りが得られる喜びが満たされるように、と願うために食べます)
いただきます。
食事が終われば
次 食竟偈
飯食巳訖 當願衆生 所作皆辨 具諸佛法
(ぼんじきいこつ とうがんしゅじょう しょさかいべん ぐしょぶっぽう)
『意味:食事の作法は、そのまま修行の道であると心する』
ごちそうさまでした。
如来は
見えるものによって見えないものを、
形あるものによって形なきものを
というように、必ず何らかの意味を外に表現する、広い意味の文字によって説法している。
その文字は、
音声の屈曲、目に見える形、香り、味といろいろある。
その文字は、見るもの、聞くもの、香るもの、味わうもの、感じるものの世界がその主体
世界の音声、言語、文字は悉く実相で、それは大日如来の説法にほかならない
とあります。
この世のすべての音・声・姿形は真言=仏の説法である、ということ。
また
『般若心経秘鍵』には、
如来の説法に二種あり
顕教では一般的な言葉で説き
密教の素質があるものには陀羅尼を説く
陀羅尼は多くの深い意味を持っている
とあります。
真言は、
サンスクリット語・マントラ(mantra)のこと。
お大師さんの師の師・不空三蔵の訳。それ以前は呪と訳しました。
仏菩薩が説いた言葉、聖なる言葉、真実語
という意味。
陀羅尼は、
サンスクリット語・ダーラニー(dhāraṇī)の音訳で、
意味からは「総持」と訳します。すべての善を保持し、すべての悪を抑えること。
記憶を保持する能力があり、瞑想のための呪句で、経典読誦の代りともされています。
両者の内容性質に明確な区別は無く、
一般的に、真言は比較的短く、陀羅尼は長い。でも、例外はあります。
真言も陀羅尼も、漢訳日本語訳せずに、梵語・サンスクリット語のまま唱えます。
それはなぜかと言えば、
1、秘密のため 修行が進んだものに対してのみ聞かせる
2、多義のため たくさんの意味があるので、一つに訳せない。
3、支那に無い言葉、概念のために訳せない
4、先例によって訳さない
5、尊重するために訳さない
真言密教では、
時間を経ずとも今、この身のままで悟れる。
その悟りの世界は常に大日如来が説法している。
その境地は言葉で説明することができる。
と言う立場ですが、
その言葉が真言や陀羅尼です。
般若心経の最後にある「ギャーテー・ギャーテー・ハーラーギャーテ・ハラソーギャテー・ボジーソワカ」も真言ですが、
「真言とは不思議なものである。心に思い浮かべつつ唱えれば、迷いを払ってくれる。
ひとつの文字に多くの真理が含まれ、生きているこの身体のままで、悟りの境地に達することができる 」
と『般若心経秘鍵』にあります。
真言陀羅尼で大切なことは、たくさんたくさん唱えることです。
その唱えかたに2種類あります。
堂内(お仏壇の前や道場)で、仏さまとふたりっきりになり、静かに心を込めて、ただ淡々と唱える 。
口から出た真言で自分が包まれるように。ひたすら唱えます。
もうひとつは、
いつでもでもどこでも、何をしながらでも唱える。
お風呂でもトイレでも、歩いていても、電車やバスの中でも。
口から出た真言が世界中に広がり、全ての人の功徳になるように。
__________________
【修行してみる】
〇食時作法
『テーラガーター』に、お釈迦さまの弟子・マハーカッサバ(摩訶迦葉)が食事をとる様子が描かれています。
「私は坐臥所から下って、托鉢のために都市に入った。食事をしている一人の癩病人に近づいて、彼の側に恭しく立った。
彼は、腐った手で、ひと握りの飯を捧げてくれた。彼がひと握りの飯を鉢に投げ入れてくれる時に、彼の指もまた千切れて、そこに落ちた。
壁の下の所で、わたしはそのひと握りの飯を食べた。それを食べている時にも、食べ終わった時にも、わたしには嫌悪の念は存在しなかった」
全く執着の無い食事、というものがここにあります。
食事は何のためにあるのか、
それは悟りのため、悟るために食べます。幸せになるために食べる。
ですから、食事も修行になります。
食事の前に合掌して以下を唱え、心を静かにして、さわやかな気持ちで食べましょう。
※「食時作法(じきじさほう)」
先、 金輪聖皇 宝祚延長 十方施主 災障消除 福寿増長
(きんりんじょうおう ほうそえんちょう じっぽうせしゅ さいしょうしょうじょう ふくじゅぞうちょう)
次 五観
一には、功の多少を計り、彼の来処を量れ
(ひとつには、こうのたしょうをはかり、かのらいしょをはかれ)
『意味:己の行為をかえりみ、この食べ物が如何にして作られたかを思う』
二には、己が徳行の全か闕か多か減かを忖れ
(ふたつには、おのがとくぎょうの ぜんかけつか、たかげんかを はかれ)
『意味:己の徳を積む行いが、完きか欠けているか多いか少ないかを思う』
三には、心を防ぎ、過を顕すは、三毒に過ぎず
(みつには、心をふせぎ、とがをあらわすは、さんどくにすぎず)
『意味:善心を妨げ過ちを起こすのは、貪りと瞋りと愚痴なることを思う』
四には、正しく良薬を事とし、形苦を済はんことを取れ
(よつには、まさしく りょうやくをこととし、ぎょうくをすくわんことをとれ)
『意味:食べ物はいのちを養う為であり、正しい食物を必要の限度にとることを思う』
五には、道業を成ぜんが為なり、世報は意に非ず
(いつつには、どうごうをじょうぜんがためなり、せほうはいにあらず)
『意味:自他ともに幸せになることを目標にして、徒に世の栄達を願わざることを思う』
次 正食偈
若飯食時 当願衆生 禅悦為食 法喜充満
(にゃくぼんじきじ とうがんしゅじょう ぜんねついじき ほうきじゅうまん)
『意味:食事は、 悟りの智慧を養うためであり、悟りが得られる喜びが満たされるように、と願うために食べます)
いただきます。
食事が終われば
次 食竟偈
飯食巳訖 當願衆生 所作皆辨 具諸佛法
(ぼんじきいこつ とうがんしゅじょう しょさかいべん ぐしょぶっぽう)
『意味:食事の作法は、そのまま修行の道であると心する』
ごちそうさまでした。
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