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[ 2024/11/21 21:44 | ]
13-1、食時作法 補足1
なぜ食べるのか、について『古ウパニシャッド』には、

一切の有情は食より生じ、生じた彼らはまた食によって生命を保ち、死後に再び食に帰入する

とあります。


初期仏典では、食物に対する厭想・不浄観の瞑想、つまり、食べ物や食べることは厭うべき汚れたことと観想しましたが、これは貪欲(むさぼりの心)を退治する方法のひとつでした。

密教では、

心の中に三十七尊(マンダラの中心仏)を観想し、その仏に食を供養し、仏から食を供養され、無量の福と化す

と観想します。


『釈氏要覧」には、修行者に食事が必要な理由が書かれています。それは、

1、食事は、飢餓の苦行をすることを否定するため

2、自己の細胞を生かして与えられた命を大切にするため

3、施主の功徳を受けるため

4、肉体四大を調えて仏道修行するため


そして、『蘇悉地経』には、

一日一食とせよ、むやみに断食すべからず、多食すべからず、全く少なくすべからず、食に疑いあればこれを食すべからず

とあります。


前回のページに書いた「五観」の中に、

心を防ぎ、過を顕すは、三毒に過ぎず
(みつには、心をふせぎ、とがをあらわすは、さんどくにすぎず)
『意味:善心を妨げ過ちを起こすのは、貪りと瞋りと愚痴なることを思う』 

とありますが、これは、

おいしいからと貪らず

まずいと言って怒らず

並みのものだからといって愚痴をこぼさない

という食事の姿勢。



また、「正食偈(しょうじきげ)」にあるように、

普段の食は肉体を長養し、坐禅瞑想などの修行そのものも食であり、それは悟りの智慧を養う、
という考えかたです。

坐禅瞑想して心が静かになる悦び

悟りの教えを聞いた喜び

これが、食事の喜びと同等であり、食事はそのためにある、悟りの境涯を育むために食を受ける、というのが食時作法の眼目です。


食べる時には心の中で『誓願偈』を唱えます。(ひと口目だけ)

為断一切悪 為修一切善    
為度一切生 為回向仏道    

  
ご飯をひと口入れて、
一切の悪を断つために、と思う。

ご飯をひと口入れて
一切の善を修するために、と思う。

ご飯をひと口入れて
全てのいのちを救うために、と思う。

お汁をひと口入れて
仏道に回向するために、と思う。

こうして食べることは、

戒律を守り(つまり悪しきことを断つ)、善きことに励み、他を助け救う

という大乗仏教の三聚浄戒(さんじゅじょうかい)を実践することにつながります。


ところで、大食は四大不調の原因になりますが、『出曜経』九には、大食の五患が説かれています。

それは、

1、 大便しばしば
2、 小便しばしば
3、 睡眠多し
4、 身重く修行に堪えず
5、 患多く食消化せず


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[ 2015/06/20 05:26 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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