本尊を拝むことを供養という。
供養とは、
浅略では、尊敬することであり、
深趣は、菩提心(自性清浄心)を忘れないこと。
その供養の方法には、念誦法と護摩法がある。
念誦は真言陀羅尼を唱え、護摩は火を焚く。
それぞれの本尊によって作法がある。
お不動さんなら不動法、観音さまなら観音法、お地蔵さんなら地蔵法など、
すべての尊に次第がある。
日本の真言宗寺院には、本堂や大師堂に弘法大師が本尊としておまつりされており、
弘法大師その人を供養する。
そのために編纂された「大師法」は少し毛色が違う。
密教の作法では、
我即大日
我即法界(宇宙)
を観想し、
われも何もかもは、悟りの象徴であり、それ自体である、
と自己を確認しようとする。
だから、
お不動さんを拝む時、われは不動であり、
観音さまを拝む時、自分は観音様になる。
どこか遠いところに観音さまがいるのではなく、
自分の中に在ることを認識する。
お大師さんは、
高野山奥の院に入定し、
弥勒菩薩とともに修行して、
常に我らへ手を伸ばし、
救いにきてくれる、
と云うのが大師信仰である。
つまり、
弥勒菩薩が本地で、お大師さんが垂迹である、と考えられる。
だから、
お大師さんは、お遍路さんひとりひとりと「同行二人」できる。
高野山奥の院に参籠する場合、弥勒法を修法する。
これは、
お大師さんの誓願に関わるものであり、
弥勒法の秘讃にもかなう。
「奥の院の参籠で大師法とは、余りにも直裁過ぎて疑問である」
と村上先生は『密教と現代』に書かれている。
僕などは、
我即大日を拝むことはできるけれど、
実在した温かみあふれるお大師さんに対して、
我即弘法
とは、生々しくて拝みにくい。
お大師さんを本尊とするときは、
大師法より、弥勒法や、大日を拝む理趣経法が心安いと感じる。
お大師さんは遍照金剛(大日)であるから。
大師法の特徴は、
日本で生まれたものであり、
諸尊法のように、印や真言が経典儀軌で規定されていないことである。
大師法の内容は、
先徳先人が経験の中から創作されたものなので、
今でも種類が多い。
だからか、
宥快さんの『宝鏡鈔』などには、
正当なものでは無いというような記述があるし、
古くからの伝授目録にはない 。
「垂迹としての大師がさらに格上げされて、諸佛菩薩と同格視され、いわゆる大師法があらわれた 」
と『弘法大師法考(1)』(高見寛恭)にある。
諸尊法は密教作法であり、
大師法は真言宗の作法なのであろう。
いずれにしても、即身成仏を目指して三密行をするのであれば、どんな作法でも構わない 。
「冒地の得がたきに在らず、この法に遇うことの易からざるなり」
(悟りが得がたいのではない、その教えに出会うことが難しいのである)
「一尊一契は証道の経路、一字一句は入仏の父母なるものなり」
(どの仏の印も悟りの経路であり、その言葉は成道の基本である)
(共に性霊集)
供養とは、
浅略では、尊敬することであり、
深趣は、菩提心(自性清浄心)を忘れないこと。
その供養の方法には、念誦法と護摩法がある。
念誦は真言陀羅尼を唱え、護摩は火を焚く。
それぞれの本尊によって作法がある。
お不動さんなら不動法、観音さまなら観音法、お地蔵さんなら地蔵法など、
すべての尊に次第がある。
日本の真言宗寺院には、本堂や大師堂に弘法大師が本尊としておまつりされており、
弘法大師その人を供養する。
そのために編纂された「大師法」は少し毛色が違う。
密教の作法では、
我即大日
我即法界(宇宙)
を観想し、
われも何もかもは、悟りの象徴であり、それ自体である、
と自己を確認しようとする。
だから、
お不動さんを拝む時、われは不動であり、
観音さまを拝む時、自分は観音様になる。
どこか遠いところに観音さまがいるのではなく、
自分の中に在ることを認識する。
お大師さんは、
高野山奥の院に入定し、
弥勒菩薩とともに修行して、
常に我らへ手を伸ばし、
救いにきてくれる、
と云うのが大師信仰である。
つまり、
弥勒菩薩が本地で、お大師さんが垂迹である、と考えられる。
だから、
お大師さんは、お遍路さんひとりひとりと「同行二人」できる。
高野山奥の院に参籠する場合、弥勒法を修法する。
これは、
お大師さんの誓願に関わるものであり、
弥勒法の秘讃にもかなう。
「奥の院の参籠で大師法とは、余りにも直裁過ぎて疑問である」
と村上先生は『密教と現代』に書かれている。
僕などは、
我即大日を拝むことはできるけれど、
実在した温かみあふれるお大師さんに対して、
我即弘法
とは、生々しくて拝みにくい。
お大師さんを本尊とするときは、
大師法より、弥勒法や、大日を拝む理趣経法が心安いと感じる。
お大師さんは遍照金剛(大日)であるから。
大師法の特徴は、
日本で生まれたものであり、
諸尊法のように、印や真言が経典儀軌で規定されていないことである。
大師法の内容は、
先徳先人が経験の中から創作されたものなので、
今でも種類が多い。
だからか、
宥快さんの『宝鏡鈔』などには、
正当なものでは無いというような記述があるし、
古くからの伝授目録にはない 。
「垂迹としての大師がさらに格上げされて、諸佛菩薩と同格視され、いわゆる大師法があらわれた 」
と『弘法大師法考(1)』(高見寛恭)にある。
諸尊法は密教作法であり、
大師法は真言宗の作法なのであろう。
いずれにしても、即身成仏を目指して三密行をするのであれば、どんな作法でも構わない 。
「冒地の得がたきに在らず、この法に遇うことの易からざるなり」
(悟りが得がたいのではない、その教えに出会うことが難しいのである)
「一尊一契は証道の経路、一字一句は入仏の父母なるものなり」
(どの仏の印も悟りの経路であり、その言葉は成道の基本である)
(共に性霊集)
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