お大師さんの『般若心経秘鍵』に、
それ仏法はるかにあらず、心中にしてすなわち近し。真如外にあらず、身を棄てていずくんか求めん。迷悟われに在れば発心すればすなわち到る。明暗他にあらざれば信修すればたちまちに証す。
という文がございます。
悟りと言うものは、どこか遠くにあるのではなくて、自分の心の中に、すぐ近くにあるんですよ。
だからね、今すぐにでも、そこを目指して修行を始めなさい。始めさえすれば到達できますし、悟りも迷いもあなた次第ですよ。
迷いが多いから悟りも多いのですが、悟りというのは簡単に言えば「しあわせ」と言うことです。
悟りもしあわせも、名詞ではなくて動詞なんです。しあわせになる。
行住坐臥すべてが悟りのためにあるのですが、人はしあわせになるために仕事をし、遊び、病を治し、戦い、投票し、ご飯を食べます。
しあわせになるために考え、迷い、記憶します。
僕はそう考えています。
例えば、
貧乏はしあわせにはならない、不幸であると考える人がいる。
いやいや、貧乏でも家族が仲良くしていればしあわせだと感じる人もいる。
政権を取らなければ不幸であると考えたり、そんなもの無くても、地元の人の役に立てばしあわせだとと思う人もいる。
家族が流されてひとりぼっちになった人がいる。
自分を助けに来てくれて流された人がいる。自分だけ助かってしまった、と感じてしまう。
あの日あの時発電所で働いていた人がいる。大きな恐怖の中で。
その人たちもしあわせになれるように、と拝んでいる人も大勢いる。小さな小さな力だけれど、いつかしあわせになるように、と。
お釈迦さまもそうだったのだけれど、自分ひとりで凛としてしあわせにはなれないものです。なぜなら、しあわせも苦しみも伝染するから。
しあわせは自分の内にあるものだけれど、それはある程度の精進工夫をしないと見ることができない。味わうこともできない。
みじん切りがみじんでなく、薄切りが薄くない人と、
細心の注意を払っていないことと、
陽性過多と、
人間関係の不満と、
治らない病気とは、みな同じ状態です。
何かがちょっと足らない。
僕は自他共に、しあわせになるために料理をして、しあわせになるために食べますが、そう思うことを忘れないようにする、そうすることが習慣になる、というのがただ今の気持ちでございます。
それ仏法はるかにあらず、心中にしてすなわち近し。真如外にあらず、身を棄てていずくんか求めん。迷悟われに在れば発心すればすなわち到る。明暗他にあらざれば信修すればたちまちに証す。
という文がございます。
悟りと言うものは、どこか遠くにあるのではなくて、自分の心の中に、すぐ近くにあるんですよ。
だからね、今すぐにでも、そこを目指して修行を始めなさい。始めさえすれば到達できますし、悟りも迷いもあなた次第ですよ。
迷いが多いから悟りも多いのですが、悟りというのは簡単に言えば「しあわせ」と言うことです。
悟りもしあわせも、名詞ではなくて動詞なんです。しあわせになる。
行住坐臥すべてが悟りのためにあるのですが、人はしあわせになるために仕事をし、遊び、病を治し、戦い、投票し、ご飯を食べます。
しあわせになるために考え、迷い、記憶します。
僕はそう考えています。
例えば、
貧乏はしあわせにはならない、不幸であると考える人がいる。
いやいや、貧乏でも家族が仲良くしていればしあわせだと感じる人もいる。
政権を取らなければ不幸であると考えたり、そんなもの無くても、地元の人の役に立てばしあわせだとと思う人もいる。
家族が流されてひとりぼっちになった人がいる。
自分を助けに来てくれて流された人がいる。自分だけ助かってしまった、と感じてしまう。
あの日あの時発電所で働いていた人がいる。大きな恐怖の中で。
その人たちもしあわせになれるように、と拝んでいる人も大勢いる。小さな小さな力だけれど、いつかしあわせになるように、と。
お釈迦さまもそうだったのだけれど、自分ひとりで凛としてしあわせにはなれないものです。なぜなら、しあわせも苦しみも伝染するから。
しあわせは自分の内にあるものだけれど、それはある程度の精進工夫をしないと見ることができない。味わうこともできない。
みじん切りがみじんでなく、薄切りが薄くない人と、
細心の注意を払っていないことと、
陽性過多と、
人間関係の不満と、
治らない病気とは、みな同じ状態です。
何かがちょっと足らない。
僕は自他共に、しあわせになるために料理をして、しあわせになるために食べますが、そう思うことを忘れないようにする、そうすることが習慣になる、というのがただ今の気持ちでございます。
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