『仏性論』によれば、
1、すべての衆生はことごとく如来の智の内に摂められている。
2、如来の法身は因位・果位を通じて変らないが衆生にあっては煩悩に覆いかくされている。
3、如来の果徳はことごとく凡夫の心中に摂まっている。
また、『大般涅槃経』には、
一切衆生悉有仏性
とあり、
これがつまり如来蔵です。
僕らの内側には、仏・如来、あるいは仏と同じ本来清らかな心がある。
けれど、
それは迷い煩悩に覆われて見えない。
その覆いを取り去れば成仏が可能、
ということ。
僕らの中には仏の、悟りの種があるんですね。
しかし、
仏教は諸法無我が原則で、唯一の根源的実在は無いはずだから、
仏性や如来蔵などの清浄なものが、僕らの中に本質として存在している、
なんて、縁起や空の法則に反していないだろうか。
そもそも、
清浄とか清らかなんて、概念であり、実体は無い。
それにしても、
真言密教は如来蔵思想の宗教です。
その証拠に、
総ての行法にある慈無量観では、
「六道四生の一切有情は皆如来蔵を具す」
いつも唱える『理趣経』第十二段には、
「一切有情は如来蔵なり」
とありますから。
そして、
『秘蔵記』第二十九章には、
この卒塔婆に自性清浄心、真如、仏性、如来蔵の名を付す
とあります。
卒塔婆は大日如来の象徴、つまり、僕らの心中の悟りのシンボル。
僕らの中に仏の種がある、つまり慈悲がある。
それによって、
他人の苦しみを抜き、楽を与える(能力が僕らにはある)
だれもが愚かさの迷いをもっているけれど、
大丈夫だよ、心配ないよ、と収める。
みんなに仏性があり、本当は清浄なのだから、それを喜ぶ。
そうすれば、
我と人、あっちとこっち、という差別を超越して大空のように広く平等。
1、すべての衆生はことごとく如来の智の内に摂められている。
2、如来の法身は因位・果位を通じて変らないが衆生にあっては煩悩に覆いかくされている。
3、如来の果徳はことごとく凡夫の心中に摂まっている。
また、『大般涅槃経』には、
一切衆生悉有仏性
とあり、
これがつまり如来蔵です。
僕らの内側には、仏・如来、あるいは仏と同じ本来清らかな心がある。
けれど、
それは迷い煩悩に覆われて見えない。
その覆いを取り去れば成仏が可能、
ということ。
僕らの中には仏の、悟りの種があるんですね。
しかし、
仏教は諸法無我が原則で、唯一の根源的実在は無いはずだから、
仏性や如来蔵などの清浄なものが、僕らの中に本質として存在している、
なんて、縁起や空の法則に反していないだろうか。
そもそも、
清浄とか清らかなんて、概念であり、実体は無い。
それにしても、
真言密教は如来蔵思想の宗教です。
その証拠に、
総ての行法にある慈無量観では、
「六道四生の一切有情は皆如来蔵を具す」
いつも唱える『理趣経』第十二段には、
「一切有情は如来蔵なり」
とありますから。
そして、
『秘蔵記』第二十九章には、
この卒塔婆に自性清浄心、真如、仏性、如来蔵の名を付す
とあります。
卒塔婆は大日如来の象徴、つまり、僕らの心中の悟りのシンボル。
僕らの中に仏の種がある、つまり慈悲がある。
それによって、
他人の苦しみを抜き、楽を与える(能力が僕らにはある)
だれもが愚かさの迷いをもっているけれど、
大丈夫だよ、心配ないよ、と収める。
みんなに仏性があり、本当は清浄なのだから、それを喜ぶ。
そうすれば、
我と人、あっちとこっち、という差別を超越して大空のように広く平等。
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