『舎利礼文(しゃりらいもん)』という、とても短いお経があります。
厳密には経典ではなく、礼敬文ですが、お経として通用しています。
「一心頂礼 万徳円満 釈迦如来
真身舎利 本地法身 法界塔婆
我等礼敬 為我現身 入我我入
佛加持故 我証菩提 以佛神力
利益衆生 発菩提心 修菩薩行
同入円寂 平等大智 今将頂礼」
これだけ。
栂尾先生の訳では、
まことをささげ おん舎利を
まどかの功徳 仰がなん
釈迦牟尼仏の 肉身の
とわにほろびぬ 舎利こそは
根本の法の みほとけの
性(さが)そのままの 塔婆なり
われら心に おろがめば
仏の姿 眼にうかび
われとみ仏 融けあえり
仏のめぐみ 身にうけて
まよいの闇を われのぞき
ほとけのちから うけもちて
世のひとびとを 救わなん
ともにさとりを 請いもとめ
すくいのわざを はげみつつ
きよきいこいに 入れよかし
総てをめぐむ 智の性(さが)の
舎利をば礼し たてまつる
舎利はお釈迦さんの遺骨、
本地法身は真如、大日如来のこと、
法界塔婆は、
大日如来の智慧を象徴したもの。
それを礼拝することで、仏は仏身を現わし、
入我我入し、
仏は我に加持し、
その仏の救済力によって、その力を私も体得し、
一切衆生を救済し、利益する。
そして、
一切衆生に菩提心をおこさせ、
悟りの境地へ入らせる、
自他平等の大智を体得する
ということ。
重要なのは、
大日の象徴である塔婆はイコール法界であること。
(だから、塔婆の表には胎蔵の大日を現す五字の梵字、
裏には 金剛界大日を示すバン字という梵字が書かれています)
それを拝むことで、
入我我入(にゅうががにゅう)する、
つまり、自分が仏になること。
塔婆を面前に瞑想修行して、
現実に成仏する、悟る。
加持(ちからぞえ)は、入我我入と同じように、
仏の慈悲の光を、僕らの信心が受け取ること。
窓(心)を開けて、風(仏の説法)を入れると、
仏の加持を受け、迷いの闇が除かれます。
窓の鍵は、懺悔と持戒で開きます。だから、誰でも開けられる。
また、
迷いが波立つ海に漂っていても、
思い切って潜れば、
波の無い、寂静の海に入る。
その海は、
大きく広く、たくさんの生命を育んでいる。
『秘蔵記』には、
諸仏は満徳円満の眷属囲繞せり
我もまた、満徳円満して眷属囲繞せり
諸仏は遍法界の身なれば、吾が身、諸仏の中にあり
吾が身 遍法界の身なれば、諸仏の身、吾が身中にあり
とあります。
諸仏は、仏の智慧は、悟りは、宇宙全体に満ちています。
宇宙は仏、その中にいる僕らは、身体を構成している細胞みたいなもので、
仏の一部、仏の身。
風(仏)を入れれば、僕らも風になる、風と一体になる。
海(仏)に潜れば、僕らも海の一部になる、海と一体になる。
万徳円満する。
厳密には経典ではなく、礼敬文ですが、お経として通用しています。
「一心頂礼 万徳円満 釈迦如来
真身舎利 本地法身 法界塔婆
我等礼敬 為我現身 入我我入
佛加持故 我証菩提 以佛神力
利益衆生 発菩提心 修菩薩行
同入円寂 平等大智 今将頂礼」
これだけ。
栂尾先生の訳では、
まことをささげ おん舎利を
まどかの功徳 仰がなん
釈迦牟尼仏の 肉身の
とわにほろびぬ 舎利こそは
根本の法の みほとけの
性(さが)そのままの 塔婆なり
われら心に おろがめば
仏の姿 眼にうかび
われとみ仏 融けあえり
仏のめぐみ 身にうけて
まよいの闇を われのぞき
ほとけのちから うけもちて
世のひとびとを 救わなん
ともにさとりを 請いもとめ
すくいのわざを はげみつつ
きよきいこいに 入れよかし
総てをめぐむ 智の性(さが)の
舎利をば礼し たてまつる
舎利はお釈迦さんの遺骨、
本地法身は真如、大日如来のこと、
法界塔婆は、
大日如来の智慧を象徴したもの。
それを礼拝することで、仏は仏身を現わし、
入我我入し、
仏は我に加持し、
その仏の救済力によって、その力を私も体得し、
一切衆生を救済し、利益する。
そして、
一切衆生に菩提心をおこさせ、
悟りの境地へ入らせる、
自他平等の大智を体得する
ということ。
重要なのは、
大日の象徴である塔婆はイコール法界であること。
(だから、塔婆の表には胎蔵の大日を現す五字の梵字、
裏には 金剛界大日を示すバン字という梵字が書かれています)
それを拝むことで、
入我我入(にゅうががにゅう)する、
つまり、自分が仏になること。
塔婆を面前に瞑想修行して、
現実に成仏する、悟る。
加持(ちからぞえ)は、入我我入と同じように、
仏の慈悲の光を、僕らの信心が受け取ること。
窓(心)を開けて、風(仏の説法)を入れると、
仏の加持を受け、迷いの闇が除かれます。
窓の鍵は、懺悔と持戒で開きます。だから、誰でも開けられる。
また、
迷いが波立つ海に漂っていても、
思い切って潜れば、
波の無い、寂静の海に入る。
その海は、
大きく広く、たくさんの生命を育んでいる。
『秘蔵記』には、
諸仏は満徳円満の眷属囲繞せり
我もまた、満徳円満して眷属囲繞せり
諸仏は遍法界の身なれば、吾が身、諸仏の中にあり
吾が身 遍法界の身なれば、諸仏の身、吾が身中にあり
とあります。
諸仏は、仏の智慧は、悟りは、宇宙全体に満ちています。
宇宙は仏、その中にいる僕らは、身体を構成している細胞みたいなもので、
仏の一部、仏の身。
風(仏)を入れれば、僕らも風になる、風と一体になる。
海(仏)に潜れば、僕らも海の一部になる、海と一体になる。
万徳円満する。
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