というような内容でお話し会をしましょう、と横浜のY先生をお誘いしたので、僕もちょっと勉強しておこうかな、と文献をめくっていたら、
神智学協会とかアーリア・サマージとかヴェーダンタのことがたくさん出てきて、インド思想史を勉強しなおしているようで楽しい時間になった。
少し前後するけれど、あの時代のインドにはラーマ・クリシュナがいた。
もし人が、神のみが行為者であって、自分は彼の道具に過ぎないという強固な確信をもっているなら、彼はなにひとつ罪深い行いをすることができない。
正しく踊るすべを習得した者は、絶対に間違ったステップは踏まないだろう。
(『ラーマクリシュナの福音』)
修行によって強烈な信仰をもつようになると、人は罪を犯すことができない。
で、神は電流のようなもの。見えないけれど感じることができる、と言う。
この辺は無我の立場をとる仏教とは感覚が違うけれど、タイトルの三つとも、平安に生きるための実践哲学であることには変わりが無い。
頭痛などの疼痛に対する考え方も、原因を探り、取り除き、正しい生活方法で改善する、という点で同じ。
神智学協会とかアーリア・サマージとかヴェーダンタのことがたくさん出てきて、インド思想史を勉強しなおしているようで楽しい時間になった。
少し前後するけれど、あの時代のインドにはラーマ・クリシュナがいた。
もし人が、神のみが行為者であって、自分は彼の道具に過ぎないという強固な確信をもっているなら、彼はなにひとつ罪深い行いをすることができない。
正しく踊るすべを習得した者は、絶対に間違ったステップは踏まないだろう。
(『ラーマクリシュナの福音』)
修行によって強烈な信仰をもつようになると、人は罪を犯すことができない。
で、神は電流のようなもの。見えないけれど感じることができる、と言う。
この辺は無我の立場をとる仏教とは感覚が違うけれど、タイトルの三つとも、平安に生きるための実践哲学であることには変わりが無い。
頭痛などの疼痛に対する考え方も、原因を探り、取り除き、正しい生活方法で改善する、という点で同じ。
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[ 2012/08/04 08:06 | 米ぞうの家 ]