言葉が無ければ何も表現できず伝わらないけれど、
言葉は限定的で偏ってるから、
真理とか実相というような本質を表すことは難しい。
世間では、
言霊などと、その中に不思議な力を妄想したり、
言わなくても伝わる、
言わないと分からない、
などいろいろな捉えかたがあります。
仏教でも、
存在の真実、人生の本質、悟りなどは言葉で表せない、というグループと、
如来はあらゆる言葉でそれを表現している
という立場があります。
凡人から悟りの世界を目指すのと、
悟りの境界から振り返るのとでは景色が違うけれど、
言葉も同じ。
例えば、
僕を言葉によって説明すると、
中肉中背で剃髪、顔に特徴は無く、
性格はひねくれており、友人はいない。
何を考えているのか分からず、自分中心で、
極めてイヤなやつである。
これらは僕のすべて、本質を説明できているのかどうかはわからない。
でも、
僕からの言葉で理解する という方法では、
僕はニャンニャンニャンである、
と云えばよい。
ニャンニャンニャンは、
僕の本体、色、形、動き、働きを表す言葉。
これなら、
僕を表す言葉として間違いは無い。
ニャンニャンニャンは僕そのものであるから。
このような言葉を秘密語、真実語と云います。
言葉は耳で聴くものだけれど、
それ以外の香りや色や味などでも、秘密と真実は表されています。
言葉に出さなくても、
微笑むだけで、
手をつなぐだけで、
じっと瞑想するだけで、
食べるだけで、
真意が伝わり、心が開放されるように。
これらの「感じること」も言葉のひとつ。
このような立場なら、
言葉を持たない真理は存在せず、
あらゆるものは、言葉を通してその真実本質を現している。
存在は言葉である、
と云えるでしょう。
このように、
悟りの境界を、
如来は言葉によって開示しています。
この言葉によって、修行が進む。
当然のことながら、
悟りからの言葉を受け取れるかどうかは、
その人の資量によります。
医者は雑草の中から薬草を見つけ、
達人は石ころから宝石を探すように、
勉強とトレーニングを重ねている人には、
無駄なものは見当たらないから。
世の中では、
恵めれた境遇の人だけが成功して幸せになるわけではありません。
めぐまれず、悩まされ、だから求め、祈り、ようやく向上し、悟りを開くことで、
好ましくないと思っていたところに、
仏の言葉があることを知ります。
そして、
喜び、自由、幸いが訪れ、
キライなモノにもすべてに価値を認められるようになる。
だから、
ニャンニャンニャン。
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