玉露は収穫前に日光を遮って栽培されたもので、光が少ない状態で育った新芽。
だから、とても陰性。
日本人は魚の陽性が多いから、陰性な緑茶が合うのですが、その中でも玉露は特に陰性が強い。
その陰性が効果的な下剤になります。
控え室で、時折玉露をいただきます。
おいしゅうございます
なんていただくと、その後にモヨヲスことがある。
法衣を着て袈裟をつけた後で、
そろそろお願いします
なんて言われた時にモヨヲスと、ちょっと困る、慌てる。
どうしようもない時もある。
僕、お腹弱いんです。
玉露が陰性であり、強い陰性は下剤になる、僕はお腹が弱い、というのは事実であります。
あの人たち、解散するらしいよ
へえー。
反応はこれだけでいい。
それを、
きっとこうなのよ、たぶんあれよ、
と勝手な想像や感想を言うことに意味はない。
知るべきことは事実で、感想は不要。
ところで、
心は本来清浄である。
人は誰でも、元々仏のように清らかな存在である
ただ、煩悩の雲に覆われて、本来の清らかな仏性が見えないだけである。
というのは事実だろうか。
「我が心は無色無形なりといえども、而も本来清浄にして潔白なこと、なおし満月の如し」(『秘蔵記』)
お大師さんの言葉を疑うのはいけないことだけれども、
もし、本来清浄な心が煩悩によって汚されるなら、
なぜ、汚れた煩悩が清浄な心によって清らかにならないのか
という初期仏教(説一切有部)の意見もある。
さらに、
心が清浄であるならば、道理として汚れることは無い。清浄なものが染汚されることはあり得ない (『阿毘達磨順正理論』)
という立場もある。
長い仏教史のなかで、
煩悩で汚れていないことを清浄と理解する。
心そのものは本来白紙であって、善でもなく悪でもない。
という理解になって行きますが、
僕らは仏と同じで本来清浄である、という前提がなければ、修行の必要がなくなってしまう、
ということもある。
『理趣経』には、
仏がうちに入り
まことのわれを 組み立てる
人のまことの その性は
如来のそれにことならず
とあります。
一切のいのちは、仏性を内に持っている。
宇宙いっぱいの仏の性質が、そのまま衆生の自性となり、「我」となっているから。
ということ。
あらゆるものが心をよりどころとします。
人間関係、社会制度、病、老、死などの、思い通りにならない苦しみも心から生まれます。
その心が清浄か汚れているかは、大事な問題かもしれない。
でも、
心やモノが縁と条件によって成り立ち、つまり空であり、
常に変化して固定した実体がない、
というのは事実ですが、
それが清浄であるかどうかは、価値判断で事実とはいえない。
もともと仏教は
経験可能な現象世界を考察の対象にして、
僕らは現象以外に確認できるものは無い。
だから、
現見の世界をどう受け止めるか
が大切になります。
世の中のすべて、モノも心も、決まったものは無いんです。
こうでなければいけない
と言うことは何も無い。
愚かな僕も、少しづつ変化して賢くなるかもしれないのだから。
だから、
清浄な心、汚れた心、という固定したものは無い。
心は生滅変化する現象にすぎない。
現象として変わる心の姿が、
何かを見たり聞いたり勉強したりすることで、清浄になり、汚れる。
つまり、
心は清浄になる可能性を持っています。
そして、
あれもこれも心も、
何も決まっていない。
決まっていないのだから、
心配いらない。
僕もこれから清浄になる可能性がある。
だから、とても陰性。
日本人は魚の陽性が多いから、陰性な緑茶が合うのですが、その中でも玉露は特に陰性が強い。
その陰性が効果的な下剤になります。
控え室で、時折玉露をいただきます。
おいしゅうございます
なんていただくと、その後にモヨヲスことがある。
法衣を着て袈裟をつけた後で、
そろそろお願いします
なんて言われた時にモヨヲスと、ちょっと困る、慌てる。
どうしようもない時もある。
僕、お腹弱いんです。
玉露が陰性であり、強い陰性は下剤になる、僕はお腹が弱い、というのは事実であります。
あの人たち、解散するらしいよ
へえー。
反応はこれだけでいい。
それを、
きっとこうなのよ、たぶんあれよ、
と勝手な想像や感想を言うことに意味はない。
知るべきことは事実で、感想は不要。
ところで、
心は本来清浄である。
人は誰でも、元々仏のように清らかな存在である
ただ、煩悩の雲に覆われて、本来の清らかな仏性が見えないだけである。
というのは事実だろうか。
「我が心は無色無形なりといえども、而も本来清浄にして潔白なこと、なおし満月の如し」(『秘蔵記』)
お大師さんの言葉を疑うのはいけないことだけれども、
もし、本来清浄な心が煩悩によって汚されるなら、
なぜ、汚れた煩悩が清浄な心によって清らかにならないのか
という初期仏教(説一切有部)の意見もある。
さらに、
心が清浄であるならば、道理として汚れることは無い。清浄なものが染汚されることはあり得ない (『阿毘達磨順正理論』)
という立場もある。
長い仏教史のなかで、
煩悩で汚れていないことを清浄と理解する。
心そのものは本来白紙であって、善でもなく悪でもない。
という理解になって行きますが、
僕らは仏と同じで本来清浄である、という前提がなければ、修行の必要がなくなってしまう、
ということもある。
『理趣経』には、
仏がうちに入り
まことのわれを 組み立てる
人のまことの その性は
如来のそれにことならず
とあります。
一切のいのちは、仏性を内に持っている。
宇宙いっぱいの仏の性質が、そのまま衆生の自性となり、「我」となっているから。
ということ。
あらゆるものが心をよりどころとします。
人間関係、社会制度、病、老、死などの、思い通りにならない苦しみも心から生まれます。
その心が清浄か汚れているかは、大事な問題かもしれない。
でも、
心やモノが縁と条件によって成り立ち、つまり空であり、
常に変化して固定した実体がない、
というのは事実ですが、
それが清浄であるかどうかは、価値判断で事実とはいえない。
もともと仏教は
経験可能な現象世界を考察の対象にして、
僕らは現象以外に確認できるものは無い。
だから、
現見の世界をどう受け止めるか
が大切になります。
世の中のすべて、モノも心も、決まったものは無いんです。
こうでなければいけない
と言うことは何も無い。
愚かな僕も、少しづつ変化して賢くなるかもしれないのだから。
だから、
清浄な心、汚れた心、という固定したものは無い。
心は生滅変化する現象にすぎない。
現象として変わる心の姿が、
何かを見たり聞いたり勉強したりすることで、清浄になり、汚れる。
つまり、
心は清浄になる可能性を持っています。
そして、
あれもこれも心も、
何も決まっていない。
決まっていないのだから、
心配いらない。
僕もこれから清浄になる可能性がある。
PR