1、湾岸戦争の頃、アメリカ軍の兵士が神に祈りをささげてから戦場に向かう姿をテレビで観て、少し違和感を感じました。
何を祈るのだろうか。
教会の結婚式で、永遠の愛を神さまに誓った夫婦が、喧嘩別れをするのはどういうものだろうか。
神さまに、あれは間違いでした、と謝るのだろうか。
今でも藁人形や呪殺の信仰はあるようですが、
当庵へも、他人の不幸を祈願する護摩木が送られてくることがあります。
人は何を祈るのだろうか。
そのような人に、「お願いする力」はあるのだろうか。
2、龍樹の『中論』第十によれば
「もし薪が火と同じものであるなら
作と作者とはおなじものであろう。
もし火が薪と異なっているなら
薪がなくとも火は起こるだろう」
とあり、存在に実体は無い、縁と条件によって成り立つことを証明しています。
一般的に縁起とは
これ生ずるが故にかれ生ず
これ滅するが故にかれ滅す
これあればかれあり
これ無ければかれ無し
ということです。
智慧が無い故に無慈悲な行いがあり
その行い故に心が乱れ
心乱れる故に苦しみが生まれます。
人生には苦があります。
それは渇愛があるためです。
ですから、渇愛が無ければ苦なる人生はない。
渇愛を無くするためには正しい生活を実践すればいい。
というのが四つの聖なる真理。四諦と言います。
3、すべて実体の無いことなのですから、怒ったり執着したりしても詮無い事。
これも諦。欲望や我執をあきらめることです。
4、おとなも子どもも、人は無視されると脳は動きを止めて、危険な孤独に陥ります。
だから、幼子でも痴呆老人でも、無視しないでください。
『華厳経』にある「十種の正法」では、まず最初に、
「一切の生類を無視しない」
とあります。
自分と区別しないこと
あなたが怒っている相手は、あなたと何ら変わりのない、あなたと同じように実体の無いものであり、怒りも固定的なものではなく、過ぎ去る塵や雲のようなものです。
5、怒りは最悪の煩悩ですが、煩悩は滅するものではなく、超越するものです。
密教では不可得と言います。
6、普段正座をしている人にとって、正座はさして苦痛ではありません。
普段正座をしていない人にとっては、正座はほんの数分でもつらい。
今では寺の本堂でも斎場でもイスに座ってお参りするのがポピュラーになりました。
多くの事柄で、精進努力節制しているレベルではなく、怠惰で楽をしているレベルがスタンダードになってはいないでしょうか。
7、修行を続けているうちに、だんだん少しづつ悟りに近づくのではなく、積み重ねていくうちに、ある日突然悟ります。
それまでは、果たしてこれで良いのだろうか、やり方が間違っているのではないだろうか、これだけ拝んでいるのにさっぱりご利益が無いではないか、と疑ってしまうことがあるかもしれない。
けれど、それでも続けていれば、ある時パッと光が現れます。
8、ご飯、味噌汁、漬物という普通の食事をしていれば、その他は偏食でも構わないでしょうが、嫌なことから逃げたりする心の偏食はしないほうがいい。
心を静かにする事が禅悦食、心に慈悲の深い世界を思うことが法喜食
と仏教では言います。
9、子育ても同じでしょうが、介護する日常では、介護する人の気持ち次第ですべてが変わります。
ニコニコして優しく接すれば問題なく幸せになるし、イライラして怒りながら接すれば、つらい苦しい毎日になります。相手は関係ありません。
どれだけ「自分の執着を」諦められるか、とういことかもしれない。
サンスクリット語・satyaの訳語が諦。真理、至善、純粋という意味です。
10、僕が幼いころ、母がどこへ行くのにもついて回り、トイレまで追いかけて来たらしい。
こんなに好かれているのだから、子は可愛いものだと言う。
今、アルツハイマーの父が、幼い時の僕のように母の後ばかりついて回る。
母はまた、同じ気持ちでいると言う。
何を祈るのだろうか。
教会の結婚式で、永遠の愛を神さまに誓った夫婦が、喧嘩別れをするのはどういうものだろうか。
神さまに、あれは間違いでした、と謝るのだろうか。
今でも藁人形や呪殺の信仰はあるようですが、
当庵へも、他人の不幸を祈願する護摩木が送られてくることがあります。
人は何を祈るのだろうか。
そのような人に、「お願いする力」はあるのだろうか。
2、龍樹の『中論』第十によれば
「もし薪が火と同じものであるなら
作と作者とはおなじものであろう。
もし火が薪と異なっているなら
薪がなくとも火は起こるだろう」
とあり、存在に実体は無い、縁と条件によって成り立つことを証明しています。
一般的に縁起とは
これ生ずるが故にかれ生ず
これ滅するが故にかれ滅す
これあればかれあり
これ無ければかれ無し
ということです。
智慧が無い故に無慈悲な行いがあり
その行い故に心が乱れ
心乱れる故に苦しみが生まれます。
人生には苦があります。
それは渇愛があるためです。
ですから、渇愛が無ければ苦なる人生はない。
渇愛を無くするためには正しい生活を実践すればいい。
というのが四つの聖なる真理。四諦と言います。
3、すべて実体の無いことなのですから、怒ったり執着したりしても詮無い事。
これも諦。欲望や我執をあきらめることです。
4、おとなも子どもも、人は無視されると脳は動きを止めて、危険な孤独に陥ります。
だから、幼子でも痴呆老人でも、無視しないでください。
『華厳経』にある「十種の正法」では、まず最初に、
「一切の生類を無視しない」
とあります。
自分と区別しないこと
あなたが怒っている相手は、あなたと何ら変わりのない、あなたと同じように実体の無いものであり、怒りも固定的なものではなく、過ぎ去る塵や雲のようなものです。
5、怒りは最悪の煩悩ですが、煩悩は滅するものではなく、超越するものです。
密教では不可得と言います。
6、普段正座をしている人にとって、正座はさして苦痛ではありません。
普段正座をしていない人にとっては、正座はほんの数分でもつらい。
今では寺の本堂でも斎場でもイスに座ってお参りするのがポピュラーになりました。
多くの事柄で、精進努力節制しているレベルではなく、怠惰で楽をしているレベルがスタンダードになってはいないでしょうか。
7、修行を続けているうちに、だんだん少しづつ悟りに近づくのではなく、積み重ねていくうちに、ある日突然悟ります。
それまでは、果たしてこれで良いのだろうか、やり方が間違っているのではないだろうか、これだけ拝んでいるのにさっぱりご利益が無いではないか、と疑ってしまうことがあるかもしれない。
けれど、それでも続けていれば、ある時パッと光が現れます。
8、ご飯、味噌汁、漬物という普通の食事をしていれば、その他は偏食でも構わないでしょうが、嫌なことから逃げたりする心の偏食はしないほうがいい。
心を静かにする事が禅悦食、心に慈悲の深い世界を思うことが法喜食
と仏教では言います。
9、子育ても同じでしょうが、介護する日常では、介護する人の気持ち次第ですべてが変わります。
ニコニコして優しく接すれば問題なく幸せになるし、イライラして怒りながら接すれば、つらい苦しい毎日になります。相手は関係ありません。
どれだけ「自分の執着を」諦められるか、とういことかもしれない。
サンスクリット語・satyaの訳語が諦。真理、至善、純粋という意味です。
10、僕が幼いころ、母がどこへ行くのにもついて回り、トイレまで追いかけて来たらしい。
こんなに好かれているのだから、子は可愛いものだと言う。
今、アルツハイマーの父が、幼い時の僕のように母の後ばかりついて回る。
母はまた、同じ気持ちでいると言う。
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