あらゆるもの(の本質、本体)は本来、
不生不滅(生じることも滅することも無い)
というのが大乗仏教の原則です。
『仏教哲理の発達』には、
仏教で生とは因縁生ということである。
因縁生の法は無自性である(常住、唯一、主宰者ではない)
定まれる自性がない。
無自性の法は生じることも滅することもない。
即ち不生不滅である。
因縁によって生じたものは永久不滅なものではない。
無自性である。
自性の無いものに生滅はない。
中略
現に生滅があるのはみな仮生仮滅である
現実の生活では、
生滅なきものを生滅すると迷うから、悩み煩悩苦しみが生じる、
ということ。
また、
『別行次第秘記』の通用字輪観には、
一切の諸法の因縁生の義(顕教の至極なり)を尋ね究むる時は、
自ずから本不生の義を知るなり
その故は、
一切諸法は因縁より生ぜざるものなきが故に。
縁より生ずるものは悉く皆、始あり、本あり。
今この能生(生み出すこと)の縁を究むるに、また因縁より生ず。
かくの如く展転して縁によるが故に、
最初生起の法の為に縁と成る法は、縁に依るや依らざるや。
もし最初の一法は縁に依らずといわば、
既に諸法は従縁生なりという。何ぞ縁に依らざる一法あらん。
もしまた縁に依るといわば、これより始めに一法もなし。何れの縁に依るべきや。
かくの如く推尋する時は因縁生の義、破壊して成ぜず。
もし因縁生の義理、実にあらずと云わば、彼の最初に一法は自然生なりとやせん。
もし自然生なりと云わば、外道の自然の計に堕すべし。
因縁生にもあらず、自然生にもあらずんば、果たして如何と推し究むる時に、即ち本不生際を知るなり。
いわゆる本不生の義とは一切諸法は本来、本有にして(自然生にあらざる)、
諸の因縁より生ずるにあらず(縁生にあらざる)、
また始めあるにもあらず、終わりあるにもあらず、
有仏無仏に性も相も常爾なりと知るを本不生を知ると云うなり。
またこれを、如実知自心とも云うなり。
全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立し、
常住で唯一で創造主のようなものは無く、
条件や原因がなくなれば結果も無くなる、
と考えます。これを縁起とか因縁生と云います。
迷い煩悩と行為(業)によて苦しみが起る、
などという仕組みです。単独で独立した苦しみなどはありません。
諸法は空、つまり無自性(因縁生)であるから縁起し、
縁起するから自性をもたず空である、と。
どんなものも、相互依存性によってのみ存在できるのです。
あなたと、あれとこれとがあるから私がいる、と。
それらが無ければ存在しない、つまりワタシ本体というものは無く、
無自性・空である、と。
それ以外にも、
縁起は識の転変の意味であるという阿頼耶識縁起や、
現象世界を、真如(如来蔵)が縁に従って現れたものと見る真如縁起(如来像縁起)、
現象世界をそのまま真如であると見る法界縁起、
などがあり、
真言密教では、
法界縁起を発展させ、真如の本質である六大(地・水・火・風・空・識)が、
すべてのものに実在して、相互に無碍融通しながら偏在しているという六大縁起を考えます。
覚鑁さんの『入法界観』で、
本尊も六大、
法界行者も万法も衆生も魔界も同じく六大法界にして外に別法なし、
故に六大縁起の外に諸法の建立なし
と観想するのは、密教の全ての修法に通じるものです。
でも、
自分、自分の体、目の前にあるコップ 等々、
これらは実際にあるのだけれど、無自性である、仮にあるだけ、
というのは、普段の生活ではわかりにくい。
それは三密行で悟るしかないのだけれど、
その点、
先祖供養はわかりやすい。
故人の霊は 、
それを想う人の脳内にあるイメージで、実体はないのだから、
ウサギの角、亀の毛と同じで、自性が無い 。
なので、
それを供養する、成仏させるというのは、
それを想う人次第である。
心こそ誠のよりどころであり、
心を平安にすることが、故人の成仏になる。
心を平安にするために、
仲良く楽しく元気に暮らしましょう。
不生不滅(生じることも滅することも無い)
というのが大乗仏教の原則です。
『仏教哲理の発達』には、
仏教で生とは因縁生ということである。
因縁生の法は無自性である(常住、唯一、主宰者ではない)
定まれる自性がない。
無自性の法は生じることも滅することもない。
即ち不生不滅である。
因縁によって生じたものは永久不滅なものではない。
無自性である。
自性の無いものに生滅はない。
中略
現に生滅があるのはみな仮生仮滅である
現実の生活では、
生滅なきものを生滅すると迷うから、悩み煩悩苦しみが生じる、
ということ。
また、
『別行次第秘記』の通用字輪観には、
一切の諸法の因縁生の義(顕教の至極なり)を尋ね究むる時は、
自ずから本不生の義を知るなり
その故は、
一切諸法は因縁より生ぜざるものなきが故に。
縁より生ずるものは悉く皆、始あり、本あり。
今この能生(生み出すこと)の縁を究むるに、また因縁より生ず。
かくの如く展転して縁によるが故に、
最初生起の法の為に縁と成る法は、縁に依るや依らざるや。
もし最初の一法は縁に依らずといわば、
既に諸法は従縁生なりという。何ぞ縁に依らざる一法あらん。
もしまた縁に依るといわば、これより始めに一法もなし。何れの縁に依るべきや。
かくの如く推尋する時は因縁生の義、破壊して成ぜず。
もし因縁生の義理、実にあらずと云わば、彼の最初に一法は自然生なりとやせん。
もし自然生なりと云わば、外道の自然の計に堕すべし。
因縁生にもあらず、自然生にもあらずんば、果たして如何と推し究むる時に、即ち本不生際を知るなり。
いわゆる本不生の義とは一切諸法は本来、本有にして(自然生にあらざる)、
諸の因縁より生ずるにあらず(縁生にあらざる)、
また始めあるにもあらず、終わりあるにもあらず、
有仏無仏に性も相も常爾なりと知るを本不生を知ると云うなり。
またこれを、如実知自心とも云うなり。
全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立し、
常住で唯一で創造主のようなものは無く、
条件や原因がなくなれば結果も無くなる、
と考えます。これを縁起とか因縁生と云います。
迷い煩悩と行為(業)によて苦しみが起る、
などという仕組みです。単独で独立した苦しみなどはありません。
諸法は空、つまり無自性(因縁生)であるから縁起し、
縁起するから自性をもたず空である、と。
どんなものも、相互依存性によってのみ存在できるのです。
あなたと、あれとこれとがあるから私がいる、と。
それらが無ければ存在しない、つまりワタシ本体というものは無く、
無自性・空である、と。
それ以外にも、
縁起は識の転変の意味であるという阿頼耶識縁起や、
現象世界を、真如(如来蔵)が縁に従って現れたものと見る真如縁起(如来像縁起)、
現象世界をそのまま真如であると見る法界縁起、
などがあり、
真言密教では、
法界縁起を発展させ、真如の本質である六大(地・水・火・風・空・識)が、
すべてのものに実在して、相互に無碍融通しながら偏在しているという六大縁起を考えます。
覚鑁さんの『入法界観』で、
本尊も六大、
法界行者も万法も衆生も魔界も同じく六大法界にして外に別法なし、
故に六大縁起の外に諸法の建立なし
と観想するのは、密教の全ての修法に通じるものです。
でも、
自分、自分の体、目の前にあるコップ 等々、
これらは実際にあるのだけれど、無自性である、仮にあるだけ、
というのは、普段の生活ではわかりにくい。
それは三密行で悟るしかないのだけれど、
その点、
先祖供養はわかりやすい。
故人の霊は 、
それを想う人の脳内にあるイメージで、実体はないのだから、
ウサギの角、亀の毛と同じで、自性が無い 。
なので、
それを供養する、成仏させるというのは、
それを想う人次第である。
心こそ誠のよりどころであり、
心を平安にすることが、故人の成仏になる。
心を平安にするために、
仲良く楽しく元気に暮らしましょう。
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