密教では、
・似ているものは同じものである
・すべての存在は如来の象徴である
という視点があります。
大日如来と僕は姿形が似ているから同じもの
あなたも似ているから大日であり、あなたと僕は同じである。
同じ価値がある、ということ。どんな人も同じ。
月は円満で清浄だから
蓮華は泥から生えて泥に染まらず鮮やかだから
大地はすべてのよりどころだから、
水は悩みの熱を冷ますから、
火は煩悩の薪を焼きつくすから
風は迷いの塵を吹き飛ばすから
大空は差別仕切りが無く、何にも染まらず、とらわれていないから
仏と同じ。仏(悟り)の象徴・シンボルです。
その仏と僕らは同じもの。
『解深密経』には、
心内影像と能縁の識は、唯識の原理において、似同的かつ同時的なので、両者は異ならない。
心が心をどうして観るのか、
ある心(法)が別のある心(法)を観るのではなく、
所縁の心と能縁の心が必ず似同的同時的に顕現する
とある。
「即身成仏の図式」(『仏教経典散策』「金剛頂経」)で津田真一博士は、
もし、個人的存在と究極的実在が相似であるなら、その両者は同一である
もしも個人存在が自らの構造を究極敵意実在のそれと相似的になるように再構築し得るなら、前者は自らを後者に合一させることができる。
と書いています。
具体的には曼荼羅仏像仏画、印真言、仏具、行為動作は、
仏と個人的存在との中間におかれ、両者を媒介する。
鏡に映ったものは、そのものと同じ
心に映ったものも同じ
心に映るものは、心が作ったものであり、
外界の事象も、心を離れてありえないから、心と異ならない。
心身は仏の住居なので、その姿がいろいろでも、みな同じもの。
骨も筋肉も血液もなにもかも、仏を構成しているものと同じだから、みな同じもの。
そもそも、骨も筋肉も血液もそのもの自体が仏なので、仏で僕らは作られている。
同じものだと知れば、差別は無くなり、穏やかな世界が表れるのだろうな。
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『望診法講義録 人相遍』
http://
『望診法講義録 手相編』
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