村上保壽先生の
「『秘蔵宝鑰』十四問答段に見る護法論」(密教文化研究所紀要8、1994)
を参考に書きます。
奈良時代の780年、光仁天皇はこう言います。
天災災害が多いのは自分の不徳のためではあるが、僧尼は日頃の非法濫行のせいで、このような災害にあったということを恥ずかしく思わないのか (『続日本紀』巻三十六)
同じく巻三十八には
僧尼は仏の教えに背いて非法を重ね、私事で国と檀家の財産の搾取し、仏の功徳と称して愚民を惑わしている
とあります。
お大師さんの『秘蔵宝鑰』(十四問答段)には
現在の僧尼の状態を観ると、髪を剃ってはいるが欲を剃り落していない。
身は墨染めの衣をまとっていても、心を仏法に染めていない。
有徳の僧はきわめて稀であり、非法濫行が多い
それで良いのか
と、国を憂う男がある法師に問いかける場面があります。
そしてまた、
旱魃洪水などの天災がしきりに起こり、疫病も毎年流行する。
政治は乱れ、庶民は苦しんでいる。これはすべて僧尼の非行が原因である。
僧尼は福徳を生ずる田であり、国家を鎮護し、人々を幸福にする徳行の人ではないのか。
これに対して法師(つまりはお大師さん)が答えます。
災禍の原因には三つある。
第一は時の運
第二は天の罰
第三は業
悪業の衆生が同時に世に出て、その結果災いを招く、と。
ダライラマは
実際の行動と本人の意思を切り離して考えることが大切
とよく話します。
行為と人格を離して考える
あなたの意見には反対だけれども、それを言うあなたのことは尊敬します、と。
お大師さんもこの時、
僧尼の理念と現実の行為を切り離すように考えています。
悪いことをする個人の問題であって、仏法全体の非では無い、と。
仏法を信じ修行すれば、衆生の迷いや病は治すことができるのだから。
そして、人を謗ってはいけない。
仏法は人によって伝わる。
その仏法によって人は救われるのである。
だから、それを伝える僧侶は必要である。
僧尼の非行を問題にするのなら、官吏・公務員はどうなのか。
いたずらに国費を無駄遣いしているのではないか。
男は言います。
官吏は国家のために朝早くから夜遅くまで働いているのに、僧侶はただ堂内に座って自分勝手な修行をしているだけではないか。
それでよく、国家や納税者の恩に報いることができますね。
法師は答えます。
官吏は仕事であるが、僧侶はそうではない。だから、比べることがおかしい。
悟りのための修行者であるから。
現代は汚れて濁った時代である。
人々の性格性質は劣っている。
その中で、ひとり凛として修行をして清らかでいるのは難しい。
でも、すぐれた人が今いないからと言って、今後現れる可能性を否定する態度はよろしくない。
いずれにしても、寺院や僧侶の非行は法によって処罰されるべきで、憎しみや感情的に判断してはいけない。事実を客観的に判断するべきである。
(このあたり、原発事故後の当地でもっとも大切だと感じた)
善があれば悪があり、清らかな僧侶がいれば、悪行の僧侶はもっと大勢いる。
でも、悪者も善人になることができるのだから、仏の慈悲を仰いで理想を追うべきである。
ダライラマ著『傷ついた日本人』(新潮新書)の中、
なぜ大震災が起こったのか、という質問にたいしての答を要約すると、
直接的な地震発生のメカニズムは科学で解明できるでしょう。
被害については、その大きさと複雑さゆえ、因果関係を単純に読み解くことは難しいけれど、因と縁が複雑にからみあいながら、ある因は津波の被害となり、ある因は原発事故となる。
これらは個人のカルマ(業)で引き起こされるレベルではなく、社会全体の、世界共通のカルマのレベルの出来事です。
だから、大勢のかたが一度に同じ類の苦しみを味わうのです。
その因は規模が大きいだけではなく、はるか昔何世代も前から積み重なっていたものです。
そう考えれば人類全体の因果応報ともいえます。
たとえば自然を破壊したことが影響したのかもしれないし、物質的な豊かさを求めすぎたことが影響しているのかもしれない
ただし、人間にふりかかる物事は、ほとんどの原因は自分たちで産みだしています。
だからこそ、自分たちで解決できます。
・・・・・
さて、
世の中を見まわしてみれば
多くの人は行儀が悪く、
言葉の使いかたは乱れ
事あるごとにイライラし
背中を丸め足をひきづり
良書を読まずにスマホをいじくり
信仰はなく神仏の嫌がることをしている
勉強をせずに、金や名誉や異性を求め
規律を重んじることなく、煩悩のままに暮らし、
健康でないから人に迷惑をかける
暇があれば戯れごとに興じ
不満ばかり嘆いている。
これらは何か不運の因にならないのだろうか。
「『秘蔵宝鑰』十四問答段に見る護法論」(密教文化研究所紀要8、1994)
を参考に書きます。
奈良時代の780年、光仁天皇はこう言います。
天災災害が多いのは自分の不徳のためではあるが、僧尼は日頃の非法濫行のせいで、このような災害にあったということを恥ずかしく思わないのか (『続日本紀』巻三十六)
同じく巻三十八には
僧尼は仏の教えに背いて非法を重ね、私事で国と檀家の財産の搾取し、仏の功徳と称して愚民を惑わしている
とあります。
お大師さんの『秘蔵宝鑰』(十四問答段)には
現在の僧尼の状態を観ると、髪を剃ってはいるが欲を剃り落していない。
身は墨染めの衣をまとっていても、心を仏法に染めていない。
有徳の僧はきわめて稀であり、非法濫行が多い
それで良いのか
と、国を憂う男がある法師に問いかける場面があります。
そしてまた、
旱魃洪水などの天災がしきりに起こり、疫病も毎年流行する。
政治は乱れ、庶民は苦しんでいる。これはすべて僧尼の非行が原因である。
僧尼は福徳を生ずる田であり、国家を鎮護し、人々を幸福にする徳行の人ではないのか。
これに対して法師(つまりはお大師さん)が答えます。
災禍の原因には三つある。
第一は時の運
第二は天の罰
第三は業
悪業の衆生が同時に世に出て、その結果災いを招く、と。
ダライラマは
実際の行動と本人の意思を切り離して考えることが大切
とよく話します。
行為と人格を離して考える
あなたの意見には反対だけれども、それを言うあなたのことは尊敬します、と。
お大師さんもこの時、
僧尼の理念と現実の行為を切り離すように考えています。
悪いことをする個人の問題であって、仏法全体の非では無い、と。
仏法を信じ修行すれば、衆生の迷いや病は治すことができるのだから。
そして、人を謗ってはいけない。
仏法は人によって伝わる。
その仏法によって人は救われるのである。
だから、それを伝える僧侶は必要である。
僧尼の非行を問題にするのなら、官吏・公務員はどうなのか。
いたずらに国費を無駄遣いしているのではないか。
男は言います。
官吏は国家のために朝早くから夜遅くまで働いているのに、僧侶はただ堂内に座って自分勝手な修行をしているだけではないか。
それでよく、国家や納税者の恩に報いることができますね。
法師は答えます。
官吏は仕事であるが、僧侶はそうではない。だから、比べることがおかしい。
悟りのための修行者であるから。
現代は汚れて濁った時代である。
人々の性格性質は劣っている。
その中で、ひとり凛として修行をして清らかでいるのは難しい。
でも、すぐれた人が今いないからと言って、今後現れる可能性を否定する態度はよろしくない。
いずれにしても、寺院や僧侶の非行は法によって処罰されるべきで、憎しみや感情的に判断してはいけない。事実を客観的に判断するべきである。
(このあたり、原発事故後の当地でもっとも大切だと感じた)
善があれば悪があり、清らかな僧侶がいれば、悪行の僧侶はもっと大勢いる。
でも、悪者も善人になることができるのだから、仏の慈悲を仰いで理想を追うべきである。
ダライラマ著『傷ついた日本人』(新潮新書)の中、
なぜ大震災が起こったのか、という質問にたいしての答を要約すると、
直接的な地震発生のメカニズムは科学で解明できるでしょう。
被害については、その大きさと複雑さゆえ、因果関係を単純に読み解くことは難しいけれど、因と縁が複雑にからみあいながら、ある因は津波の被害となり、ある因は原発事故となる。
これらは個人のカルマ(業)で引き起こされるレベルではなく、社会全体の、世界共通のカルマのレベルの出来事です。
だから、大勢のかたが一度に同じ類の苦しみを味わうのです。
その因は規模が大きいだけではなく、はるか昔何世代も前から積み重なっていたものです。
そう考えれば人類全体の因果応報ともいえます。
たとえば自然を破壊したことが影響したのかもしれないし、物質的な豊かさを求めすぎたことが影響しているのかもしれない
ただし、人間にふりかかる物事は、ほとんどの原因は自分たちで産みだしています。
だからこそ、自分たちで解決できます。
・・・・・
さて、
世の中を見まわしてみれば
多くの人は行儀が悪く、
言葉の使いかたは乱れ
事あるごとにイライラし
背中を丸め足をひきづり
良書を読まずにスマホをいじくり
信仰はなく神仏の嫌がることをしている
勉強をせずに、金や名誉や異性を求め
規律を重んじることなく、煩悩のままに暮らし、
健康でないから人に迷惑をかける
暇があれば戯れごとに興じ
不満ばかり嘆いている。
これらは何か不運の因にならないのだろうか。
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