豆腐はその日に食べるのがうまく、翌日にはだいぶ味が落ちますが、
そんな豆腐でも、出汁の味をしみこませるとうまい。
昔から煮抜きとか、加須底羅豆腐と呼ばれる料理で、
豆腐に煮過ぎは厳禁、など気にしないで、スが入るまで長く煮込みます。
豆腐なのに豆腐ではないような滋味が出て、寒い晩の燗酒によく合う。
こういう温かいものを食べると、心も暖かくなりますが、
そんな時に思い出すのが四無量心。
僕らが使うほとんどの次第の初めに、
四無量心観という所作があります。
慈悲喜捨の四つ。
慈悲の心をもって世の中の人を幸せならしめ
色眼鏡をかけずに世の中の人を心から喜び
物事を平等のまなざしで、自分勝手な考えでなしに平等円満に見る
これによって法悦歓喜の生活になる
ということ。
難しいですけれどね。
でも、
およそ人が安穏に暮すためには、
上記のような慈悲喜捨の心が必要であり、
これによって、
悪い心が無くなり、心が柔らかくなります。
ごく簡単に云えば、
優しさと思いやりをもって暮す
ということ。
もしだれかひとりに対して、
優しさと思いやりを持って接すれば、
まず自分自身が平安になり、誰かがまた誰かに優しさと思いやりをもって接すれば、
その平安がひろがります。
この四無量心観の次第には、
一切有情は如来蔵を具し、三種の身口意の金剛を備えたり
とある。
みんなが仏の性質を蔵して、身体も言葉も心も仏の本性と変わることがない、と。
そう思えば、
優しさと思いやりは自然に身につき(仏なんだから)
煮抜いた豆腐の鍋を食べて身体が温まるように、
暖かい心になるはず。
そんな豆腐でも、出汁の味をしみこませるとうまい。
昔から煮抜きとか、加須底羅豆腐と呼ばれる料理で、
豆腐に煮過ぎは厳禁、など気にしないで、スが入るまで長く煮込みます。
豆腐なのに豆腐ではないような滋味が出て、寒い晩の燗酒によく合う。
こういう温かいものを食べると、心も暖かくなりますが、
そんな時に思い出すのが四無量心。
僕らが使うほとんどの次第の初めに、
四無量心観という所作があります。
慈悲喜捨の四つ。
慈悲の心をもって世の中の人を幸せならしめ
色眼鏡をかけずに世の中の人を心から喜び
物事を平等のまなざしで、自分勝手な考えでなしに平等円満に見る
これによって法悦歓喜の生活になる
ということ。
難しいですけれどね。
でも、
およそ人が安穏に暮すためには、
上記のような慈悲喜捨の心が必要であり、
これによって、
悪い心が無くなり、心が柔らかくなります。
ごく簡単に云えば、
優しさと思いやりをもって暮す
ということ。
もしだれかひとりに対して、
優しさと思いやりを持って接すれば、
まず自分自身が平安になり、誰かがまた誰かに優しさと思いやりをもって接すれば、
その平安がひろがります。
この四無量心観の次第には、
一切有情は如来蔵を具し、三種の身口意の金剛を備えたり
とある。
みんなが仏の性質を蔵して、身体も言葉も心も仏の本性と変わることがない、と。
そう思えば、
優しさと思いやりは自然に身につき(仏なんだから)
煮抜いた豆腐の鍋を食べて身体が温まるように、
暖かい心になるはず。
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ところで、頬張るはほおばる で ほうばる ではない と文字にするの改めて認識します。
会話のなかでは オ と ウ の音って混同してますよね。
私が東北の人間だからでしょうか?
それとも、私の言葉が拙いだけかも。
ハ行転呼と云いますが、二音目のハ行はワ行に変ります。そのほうが言いやすいのでしょうね。
川(かは)が かわに
問ふが問うに
云ふが云うに
など。
でも、
私は、は わたしわ
と書かずに、
学校へ、は 学校え
と書かないのはどういうわけかなのでしょうか。
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