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[ 2024/11/25 07:51 | ]
喪中とは何だろうか。
当地はウグイスが鳴き、暖かなお彼岸でございます。


彼岸供養を依頼してきた縁者から、

喪中なのだけれど、知人の結婚式に出て良いのでしょうか

 と聞かれる。

問題ありません。

そういえば、

同級生のMは在学中、毎年12月8日は学校に来なかった。

ジョン・レノンの命日だから喪に服す、と言っていた。


喪には忌と服があります。

忌は近親者のみで、強制的に隔離状態に置かれる。

家に籠って一切外出せず断食。

服は忌が終わった後、自発的に社会から遠ざかること。


これは、

明治7年太政官布告の「服忌令(ぶっきれい)」で、

父母の場合は忌中50日、服は13ヶ月

などと決められていましたが、戦後廃止。

その後、

神社本庁が「神職服忌心得」というものを作り、

父母夫婦間なら10日、祖父母孫兄弟姉妹で5日

などとしました。


『貞観政要格式』には、

喪服の者の火(これは食事のこと)、男女の血の穢れなどを忌む

とありますが、

死を穢れと考えるのなら、

忌中であれば欠礼は当然

喪に服するのは自分の勝手

他人には関係ありません。




仏教では、あらゆるものをその性質から見るので、事象に浄不浄はありません。すべては本来清浄 。生も死も清浄です。

これは、清浄という性質があるのではなく、穢れていないまっさらな状態、ということ。

当然、死人も穢れとは見ません。


『行事性鈔』には、

比丘は服を変えるべからず

俗を出て如来の子となるが故に、常に如来の衣を纏い、もとより無垢清浄である

だから、僧に忌中の穢れはない、と書かれています。



しかし、

神さまの一部は、あらゆるものをその姿で判断するので浄不浄があります。

だから、死を穢れとする思想もある。


つまり、

喪中かどうかは個人的なものです。

神社のお祭りに葬儀を出した家は参加しない、などの地域の風習があれば、それに従えばよいでしょう。


仏教は死を避けません。避けられませんから。

そして、死は汚らわしいものではない。

なので、
 
通夜葬儀でお清めの塩はやめてほしい。


密教では、

因果共に不可得なるがゆえに生死涅槃無別なり

その故に本尊と自身と隔て無し (『不動次第』)

とあるように、生死を同じものと見ます。


モノや心が生じた原因をずーと探っていくと、最後にたどり着くのは本不生。

つまり、

それは原因結果を離れた虚空のようなもの。

虚空は何から起こるかといえば、本来自爾なり、仏天人の所作にあらず、因もなく縁もない(『別行次第秘記』)

とあるように、生も死も、まったく障りの無い虚空のようなものです。きれいとか汚いとか、好き嫌いの区別をつけるものではない。



ちなみに、

喪服は喪に服するものが着るもの。喪に服するのは二親等まで。

だから、

他人が喪服を着てきたら、愛人と思われるかもしれない。



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[ 2016/03/18 14:41 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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