仏教に創造神はいない、というのが特徴。
私も宇宙も元素も、その始まりを探っていくと根本的なものにつきあたる。
モノを分析して元素、素粒子、ニュートリノと見つけ、その先には何があるのか。分割できない最終的なものがあるのか。
その根本的な始まりは、どうやって始まりとなったのか。
それは神さまが創った、というのは外道の思想として仏教では認めない。
縁起とか空とか本不生などと説明するのだけれど、
分割できない全体性がある、というのが密教の立場。
縁と条件によって変化している、互いに相応しているもの、
始まりとか終わりが無い世界。
仏教には、
自力で努力精進して悟りを目指す面と、
浄土の阿弥陀さまのように、僕らを救いに来てくれるという他力的な面の両方がある。
密教に警覚(きょうがく)という言葉がある。
自分の中に眠っている仏の本性を覚醒させることなのだけれど、
慈悲の修行によって、如来が力添えをしてくれる、と云う。
眠っている僕らを如来が起こしてくれる。
子が母を呼ぶと、母が手を差し伸べてくれるようなもの。
思い悩んでいる時に、
風が吹き鳥が鳴いて、ふと気がついて悟ることがある。
その風の音、鳥の声が如来の説法であり、
それに気がつくかつかないかが人生を変える。
気がつくような人間になりたいものである。
このように考えると、
願いをかなえる、または叶えない神仏の姿が見えてくる。
神さま仏さまがいるのに、
僕らはなぜ災害や悲惨な苦しみに出会うのだろうか。
おそらく、
神仏宇宙大自然は、人類が滅びないように、ぎりぎりのところを護っている。
だから、僕らには常に困難がある。その困難を克服しようと工夫して僕らは成長する。
そして、困難があるから神仏を信じるようになる。
困難を克服することで、僕らは人生の意味と尊厳を得ることができ、
安らかに生きる可能性が高くなる。
死に向かう安らぎも得ることができる
僕らは健康で順調な時、妄想を自由に操り、その上、勉強不足なら錯覚が生じる。
なので、
神仏は戒めを与える。
ごく普通の生活で 突然見舞われる不幸にも、
如来の深い驚覚 がある。
私も宇宙も元素も、その始まりを探っていくと根本的なものにつきあたる。
モノを分析して元素、素粒子、ニュートリノと見つけ、その先には何があるのか。分割できない最終的なものがあるのか。
その根本的な始まりは、どうやって始まりとなったのか。
それは神さまが創った、というのは外道の思想として仏教では認めない。
縁起とか空とか本不生などと説明するのだけれど、
分割できない全体性がある、というのが密教の立場。
縁と条件によって変化している、互いに相応しているもの、
始まりとか終わりが無い世界。
仏教には、
自力で努力精進して悟りを目指す面と、
浄土の阿弥陀さまのように、僕らを救いに来てくれるという他力的な面の両方がある。
密教に警覚(きょうがく)という言葉がある。
自分の中に眠っている仏の本性を覚醒させることなのだけれど、
慈悲の修行によって、如来が力添えをしてくれる、と云う。
眠っている僕らを如来が起こしてくれる。
子が母を呼ぶと、母が手を差し伸べてくれるようなもの。
思い悩んでいる時に、
風が吹き鳥が鳴いて、ふと気がついて悟ることがある。
その風の音、鳥の声が如来の説法であり、
それに気がつくかつかないかが人生を変える。
気がつくような人間になりたいものである。
このように考えると、
願いをかなえる、または叶えない神仏の姿が見えてくる。
神さま仏さまがいるのに、
僕らはなぜ災害や悲惨な苦しみに出会うのだろうか。
おそらく、
神仏宇宙大自然は、人類が滅びないように、ぎりぎりのところを護っている。
だから、僕らには常に困難がある。その困難を克服しようと工夫して僕らは成長する。
そして、困難があるから神仏を信じるようになる。
困難を克服することで、僕らは人生の意味と尊厳を得ることができ、
安らかに生きる可能性が高くなる。
死に向かう安らぎも得ることができる
僕らは健康で順調な時、妄想を自由に操り、その上、勉強不足なら錯覚が生じる。
なので、
神仏は戒めを与える。
ごく普通の生活で 突然見舞われる不幸にも、
如来の深い驚覚 がある。
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