毎日いろいろなことを考えて暮らしています。
最近食事の量を減らしていますが、
腹が減ってはいいクソはできぬ
というわけでもない。
今は仮住まいなのですが
貧乏居間無し
ということもない。
犬の散歩をして、ふと横を見ると
犬も歩けばネコも歩く。
道すがら、よその庭を見ては
きれいなバラには峠の我が家
を思います。
南瓜はまだ走りですが、そろそろ食卓に上がります。
乱切りにして油揚げと一緒に、油揚げの油分で、鍋を揺らしながら炒め、塩と醤油を少しづつ振りながら蒸し煮します。
水を使わず、南瓜の水分だけで火を通すと、甘味がすばらしい。
"
南瓜はその出来が悪いと工夫のしがいが無い野菜ですが、軸が乾燥するまで干せば糖化します。
それはさておき、
お大師さんの言葉には
人は限りない徳と力を供えている。努力とか工夫の有無にかかわりなく、元からそれらを持っている (『大日経開題』)
人は誰でも仏の智慧をそなえている。
丁度、水は低いところへ流れ、炎は上にあがるのが決まったことであるように、これもまた決まったことである (『十住心論』)
わが心に諸仏が住みたまい、わが心はもともとから仏智に限られている (『性霊集』喜雨歌)
そういうことを知らないのは、貧乏の中の貧乏である (『吽字義』)
などとあり、これが真言密教の考えかたです。
仏教中の本覚思想といいますが、諸々のことを打ち消そうとするのではなく、個々の善悪よりも心そのものに着眼します。
僕らはそもそも完全であり、清浄である。
ちょっと、雲に覆われて気がつかない、忘れている時があるけれど。
自分はもともと清浄である、ということがわかるには段階があります。そのために修行が必要、というのが仏教の立場。
先日、東大病院に知人を見舞いました。大きな病院ですね。
80歳を過ぎたその人は
生きているうちに会えてよかったねえ
と言って、手を差し出しました。その手には温かさと力があった。
あんた、お子さんは大きくなったかい?
はい、長女長男は上京して、三番目も寮生活。
そうかい、じゃあ、仏さまにお任せしたんだね
そうなんですね、親の手から離れて仏さまにお任せした。
あたしもね、仏さまにお任せしているんだよ。
だから、アンタにも思いがけずこうして会えた。
ありがたいもんだねえ。
人は誰かに見守られていれば安心します。
おそらく、知人縁者がいなくても、大自然や宇宙といった仏さまが見守っている。
もし、誰かが誰かを見捨てると、その見捨てられた人に不幸があった時にとても後悔します。
だから、人は人を見捨てないほうがいい。
僕はあの震災と事故の後、全国のお坊さんが僕らを拝んでいてくれることに、心から平安と安心を覚えました。その上、世界中の人が祈ってくれていたのを知り、泣きそうだった。
誰かが僕のために拝んでくれる、僕のことを気にしてくれている
そう思うだけで安心して暮らせます。
だから、どうぞ誰かのことを拝んでください。
拝むということは、心に根っこが生えるようなものです。たくさん拝んで根っこがしっかりすれば、心安らかになります。それは地下にあって見えないのだけれど。
________________________
※穀菜食の舎ページ
「緑内障のメニュー}
https:/ /groups .google .com/fo rum/?hl =ja#!to pic/shi ntenan/ RDPNytK Wtms
最近食事の量を減らしていますが、
腹が減ってはいいクソはできぬ
というわけでもない。
今は仮住まいなのですが
貧乏居間無し
ということもない。
犬の散歩をして、ふと横を見ると
犬も歩けばネコも歩く。
道すがら、よその庭を見ては
きれいなバラには峠の我が家
を思います。
南瓜はまだ走りですが、そろそろ食卓に上がります。
乱切りにして油揚げと一緒に、油揚げの油分で、鍋を揺らしながら炒め、塩と醤油を少しづつ振りながら蒸し煮します。
水を使わず、南瓜の水分だけで火を通すと、甘味がすばらしい。
"
南瓜はその出来が悪いと工夫のしがいが無い野菜ですが、軸が乾燥するまで干せば糖化します。
それはさておき、
お大師さんの言葉には
人は限りない徳と力を供えている。努力とか工夫の有無にかかわりなく、元からそれらを持っている (『大日経開題』)
人は誰でも仏の智慧をそなえている。
丁度、水は低いところへ流れ、炎は上にあがるのが決まったことであるように、これもまた決まったことである (『十住心論』)
わが心に諸仏が住みたまい、わが心はもともとから仏智に限られている (『性霊集』喜雨歌)
そういうことを知らないのは、貧乏の中の貧乏である (『吽字義』)
などとあり、これが真言密教の考えかたです。
仏教中の本覚思想といいますが、諸々のことを打ち消そうとするのではなく、個々の善悪よりも心そのものに着眼します。
僕らはそもそも完全であり、清浄である。
ちょっと、雲に覆われて気がつかない、忘れている時があるけれど。
自分はもともと清浄である、ということがわかるには段階があります。そのために修行が必要、というのが仏教の立場。
先日、東大病院に知人を見舞いました。大きな病院ですね。
80歳を過ぎたその人は
生きているうちに会えてよかったねえ
と言って、手を差し出しました。その手には温かさと力があった。
あんた、お子さんは大きくなったかい?
はい、長女長男は上京して、三番目も寮生活。
そうかい、じゃあ、仏さまにお任せしたんだね
そうなんですね、親の手から離れて仏さまにお任せした。
あたしもね、仏さまにお任せしているんだよ。
だから、アンタにも思いがけずこうして会えた。
ありがたいもんだねえ。
人は誰かに見守られていれば安心します。
おそらく、知人縁者がいなくても、大自然や宇宙といった仏さまが見守っている。
もし、誰かが誰かを見捨てると、その見捨てられた人に不幸があった時にとても後悔します。
だから、人は人を見捨てないほうがいい。
僕はあの震災と事故の後、全国のお坊さんが僕らを拝んでいてくれることに、心から平安と安心を覚えました。その上、世界中の人が祈ってくれていたのを知り、泣きそうだった。
誰かが僕のために拝んでくれる、僕のことを気にしてくれている
そう思うだけで安心して暮らせます。
だから、どうぞ誰かのことを拝んでください。
拝むということは、心に根っこが生えるようなものです。たくさん拝んで根っこがしっかりすれば、心安らかになります。それは地下にあって見えないのだけれど。
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※穀菜食の舎ページ
「緑内障のメニュー}
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