豪雨等災害お見舞い申し上げます。
また、
被災地の安全とご無事をお祈りしております。
信州飯田も雨が続き、緑色が深くなっています。
ところで、
『ある市井の徒』(長谷川伸 中公文庫)は、
最近読んだ中でもとびきりおもしろかった。
著者は股旅物を世に広めた大衆作家、
代表作はもちろん「瞼の母」
弟子に池波正太郎がいる。
この母がすごいと僕は思う。
歌丸さんが生まれた色街の近く、
横浜日ノ出町の土木請負業の男に嫁ぐけれど、
夫が妾を家に連れ込み、伸が3歳のとき家を出る。
伸は、土方、遊郭の出前持ち、住み込みの走り使いや水撒き人足などとして働く。
母はその後、
三谷宗兵衛という裕福な商人と再婚し、
法学者で哲学者の三谷隆正、
外交官で侍従長の三谷隆信を産む。
社会の底辺と思われるようなところで生きる伸と、
エリート貴公子のような三谷兄弟。
その両方の母である。
一校の良心と云われた三谷隆正の遺稿に『幸福論』がある。
キリスト教に基づく考えかたで、
自己を棄て、
他者に自己を奉げるところに人生の幸福があるとする。
他者とは神のこと。
『幸福論』はヒルティのそれが著名だけれど、
阿川弘之は『エレガントな像』のなかで、
人が求めてやまない幸福の感情のなかには、
食の幸福感があるべきなのに、ヒルティ『幸福論』には、それが無い、
生き物が幸福な生涯を送るに必要な基本条件は、
食べたい時食べたいものを充分食べられること、その逆は不幸の始まりと考えている
と書いている。
確かに、
ああ、おいしかった、
という時は、ひとつの幸せである。
さらに、
誰かが、そう言ってくれればもっと幸せを感じる。
手作りの料理はもちろん、
外食でも、駄菓子屋で買ったお菓子ひとつでも、
人に食べさせるのは幸福である。
飼い猫にエサをやるのでさえ、幸福を味わえる。
僕はここ数年、
他人と食事をするのが苦痛で、
できるだけ避けている。
それは面倒臭いから。
食べたくないもの、
食べたくない時、
があるから。
しかし、
こういう僕の姿勢は、
誰かの幸福感を奪うことにつながっているのだろうな。
これは、まったく困ったことである。