しあわせを願えばしあわせが来る。
などということはないだろうな。それは子どもの考え方だ。
悟りを願うなら修行しなければ届かないように、
努力工夫しなければ、しあわせにはなれない。怠惰と妄想では迷いの繰り返しがあるだけ。
お釈迦さんや孔子さまがそのように言っても、気がつかないまま生きてきている。
経験を積んだ大人は、昔と今を比較検討して、現在を客観的に見ることができます。
勉強して知識のある人も、過去の歴史や世界の様子と比べることができるので、より客観的に見ることができる。
それに対して子どもは今しか知らない。
より幼い子なら親とその周辺しか知らないから、「今」と「親」のマインドコントロール下にある。
というようなことを、高島俊男サンがどこかに書いていたけれど、
だから、子どもの様子は今の家庭や社会の状態を表していることが多い。
大人が冷静になっていれば良いのだけれど、そうでない場合はそうでなくなるのが子どもである。そして、その子の脳は硬直してゆく。
「怪力乱神を語らず」というのは孔子さまの言葉。(『論語』述而篇)
神妙不可思議な、理性では説明できないことがらについては語らなかった、ということ。
論理的建設的な思考で、自分の考えが及ぶ範囲で考える、そうでないものは理性的でなくなり、心が振り回されるだけ。
お釈迦さまは「無記」という立場をとっていました。
「この世界は、どうなっているのか? 霊魂は存在するのか? 死んだらどうなるのか?」
このような問いにお釈迦さまは答えませんでした。
有名なのが阿含経典にある「毒矢の喩え」
毒を塗った矢が飛んできて刺された。
まずはその矢を抜くことが先決。
矢を調べたり、誰が矢を射ったのか調べたりするのは、後からでも出来る。
困難な事態の時には、今すべきことを判断できなければならない。
まずは、矢が刺さった人の苦しみを取り除くことが大切なんだ。
「霊魂があるか」「死後どうなるのか」などということは、心が振り回されるだけなんだ。
そのようなことを考えるのは、それはそれでおもしろいのだけれど。
無用な論争の弊害からのがれ、苦しみからの解放という本来の目的を見失なわないためにとられたのが「無記」
霊魂が、前世が、来世がどうであろうと、まずは現在の苦を滅するための修行が大切ではないのかな、というのが仏教の立場です。
僕らは普段、善悪好き嫌いなどの思考によって、煩悩に振り回されて生活しています。
でも、坐禅瞑想するときには、無差別無執着の心でなければうまくいきません。
隣りに寝ている人のいびきが聞こえても、いびきが聞えているだけのこと。
それが素敵だとか、うるさいとか思う必要はない。
ただ、聞こえている。
心を統一する、コントロールするには、それが瞑想の目的なのだけれど、求める心を捨てることが大切。
心身は一如ですから、身体を中庸にするのは心の安定にとても良いことです。
陽性になれば陰性が欲しくなり、陰性なら陽性を強烈に期待します。
そういう両極端なものを少なくすることで、だんだんと心は安定します。
求めることをやめれば、心のなかにある自我という、もっとも手ごわい煩悩の垢が自然と取れます。穢れも無くなる。
もし、そのような心を毎日の生活の中で持つことができれば、ありとあらゆるものが仏に見えてくる、と僕らは教わりました。
一日のうち、ほんの数分でもそういう心になれば、それが積み重なって、苦しみや不安や迷いが少ない心になり、心身が中庸ならガンや認知症にもならず、死に際も美しくなるだろうな。
などということはないだろうな。それは子どもの考え方だ。
悟りを願うなら修行しなければ届かないように、
努力工夫しなければ、しあわせにはなれない。怠惰と妄想では迷いの繰り返しがあるだけ。
お釈迦さんや孔子さまがそのように言っても、気がつかないまま生きてきている。
経験を積んだ大人は、昔と今を比較検討して、現在を客観的に見ることができます。
勉強して知識のある人も、過去の歴史や世界の様子と比べることができるので、より客観的に見ることができる。
それに対して子どもは今しか知らない。
より幼い子なら親とその周辺しか知らないから、「今」と「親」のマインドコントロール下にある。
というようなことを、高島俊男サンがどこかに書いていたけれど、
だから、子どもの様子は今の家庭や社会の状態を表していることが多い。
大人が冷静になっていれば良いのだけれど、そうでない場合はそうでなくなるのが子どもである。そして、その子の脳は硬直してゆく。
「怪力乱神を語らず」というのは孔子さまの言葉。(『論語』述而篇)
神妙不可思議な、理性では説明できないことがらについては語らなかった、ということ。
論理的建設的な思考で、自分の考えが及ぶ範囲で考える、そうでないものは理性的でなくなり、心が振り回されるだけ。
お釈迦さまは「無記」という立場をとっていました。
「この世界は、どうなっているのか? 霊魂は存在するのか? 死んだらどうなるのか?」
このような問いにお釈迦さまは答えませんでした。
有名なのが阿含経典にある「毒矢の喩え」
毒を塗った矢が飛んできて刺された。
まずはその矢を抜くことが先決。
矢を調べたり、誰が矢を射ったのか調べたりするのは、後からでも出来る。
困難な事態の時には、今すべきことを判断できなければならない。
まずは、矢が刺さった人の苦しみを取り除くことが大切なんだ。
「霊魂があるか」「死後どうなるのか」などということは、心が振り回されるだけなんだ。
そのようなことを考えるのは、それはそれでおもしろいのだけれど。
無用な論争の弊害からのがれ、苦しみからの解放という本来の目的を見失なわないためにとられたのが「無記」
霊魂が、前世が、来世がどうであろうと、まずは現在の苦を滅するための修行が大切ではないのかな、というのが仏教の立場です。
僕らは普段、善悪好き嫌いなどの思考によって、煩悩に振り回されて生活しています。
でも、坐禅瞑想するときには、無差別無執着の心でなければうまくいきません。
隣りに寝ている人のいびきが聞こえても、いびきが聞えているだけのこと。
それが素敵だとか、うるさいとか思う必要はない。
ただ、聞こえている。
心を統一する、コントロールするには、それが瞑想の目的なのだけれど、求める心を捨てることが大切。
心身は一如ですから、身体を中庸にするのは心の安定にとても良いことです。
陽性になれば陰性が欲しくなり、陰性なら陽性を強烈に期待します。
そういう両極端なものを少なくすることで、だんだんと心は安定します。
求めることをやめれば、心のなかにある自我という、もっとも手ごわい煩悩の垢が自然と取れます。穢れも無くなる。
もし、そのような心を毎日の生活の中で持つことができれば、ありとあらゆるものが仏に見えてくる、と僕らは教わりました。
一日のうち、ほんの数分でもそういう心になれば、それが積み重なって、苦しみや不安や迷いが少ない心になり、心身が中庸ならガンや認知症にもならず、死に際も美しくなるだろうな。
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