当地の畑や庭でもキュウリやナスが採れはじめ、夏が近づいてまいりました。
夏野菜は陰性で身体を冷ますので、陽性な暑い日にうまい。
トマト3個+麦味噌大さじ1+炊いた炒り玄米大さじ3くらいで炊くと、ちょうど良いトマトソースになります。そこに好みの野菜や調味料を足す。
トマトの酸味は身体を冷まして&腎臓の滋養になり、味噌はお腹を温め、炒り玄米が排毒を促します。
キュウリに味噌、トマトに塩だけでもうまいけれど、ドレッシングがあると夏野菜も楽しい。
ドレッシングの基本は酢と油。陰性同士だから混ざらない。
で、そこに陽性なものをちょっと足すとうまく混ざっておいしくなります。
ドレッシングの酸味と油のように、きのこと油揚げなど、油を溶かすものと新しい油、という組み合わせはすばらしい。
それはさておき、
先日、裏山で刈払機を使って下草刈りをしていたら、スズメバチの巣を壊して大騒ぎになりましたが、他にもマムシや何だかわからない毒虫もずいぶんいます。
人間は足も遅いし、爪やツノや牙などの鋭い武器も持っていないし、生き物の中でも弱い部類でしょうが、脳を使って生き延びています。
この脳を使う生きかたは千差万別ですが、僕らはその時々に応じて、心をいろいろな場所に住み替えて、生きかたを変えています。
お大師さんの『十住心論』では、第一住心を「異生羝羊心(いしょうていようしん)」と言いますが、性と食のみにしか関心が無く、倫理道徳も無いレベル。動物的本能だけ。
このレベルは因果の法則を理解せず、物事に執着する心ですから、実体的な自我や霊魂を信じる、というのもこのレベル。
霊魂があるということは自我もあるのでしょうから、それに執着するとき、迷いの世界にとらわれ、煩悩の鎖から逃れられなくなる。
『三教指帰』には、
天堂地獄は固定的な世界ではなく、その人の業(行為)の報いとして現れる心の世界
とあり、極楽や地獄などが実際にあるのではなく、自分の行為がそのような世界を心に招く、感じる、ということ。
また、
三界は家なし。六趣は不定なり。ある時は天堂を国と為し、有る時は地獄を家となす
とあるように、人は必ずしも固定した世界にいるのではなく、現世において心の住する世界は業によって、くるくる変わっている。
当たり前ですね。でも、昔はそうでもなかったのでしょうね。実際に鬼や怨霊や地獄があると思っていた。
業は果報を生じさせます。
たとえばウシやブタが屠殺されるときには非常に苦しむでしょうね。
まあ、代わりに自分が殺されるのだと思えば、その場は地獄ですね。
そのように、他のいのちを断つなどの業によって、それを食べなければ生きてゆけない場合は、どんな心に住しているかで、その人の業も随分と変わります。
密教は如来蔵思想といって、僕らはみな仏さまと本来同じレベルと考えています。元々、悟っている、と。
但し、煩悩に覆われているからそこに気がつかない、仏になれないでいるだけ。
煩悩の埃を取り除けば、そこに完全な仏が現れる。
だったら、地獄でも餓鬼でも異生羝羊心でもいいじゃないか、
というわけにはいかず、修行や規律正しい生活でないと、悩み迷い不安など煩悩の埃は取り除かれない。
でも、僕らが本来仏と同じようなすばらしい存在であることは事実なので、これは業の結果ではありません。
『声字実相義』には
衆生にまた本覚法身あり。仏と平等なり
三界六道の身及び土は業縁によって有なり。衆生の隨縁と名づく
とあり、僕らの意志に関わらず、僕らは仏なんです。
当然、過去世や他の霊魂による影響もありません。本質が仏ですから、いかなる業を積んでも、存在としては仏です。
ただし、生きている現世ではいろいろな問題があります。
その現世のありかたが問題になる。
例えば、地獄を招くのは前世の定めでは無く、現世での業と縁。つまり自分が何をしたか、ということ。
地獄は苦しみの世界なのでしょうが、苦しみというのは思い通りにはならないことですから、
ああ、思い通りにならなくて嫌になっちゃうなあ 。怠けちゃおうかなあ。ウソついてだましちゃおうかなあ。他人のことなんてどうでもいいよなあ。
と思う時に、心は地獄に住むようになる。
地獄に住んでいれば、地獄のようなことをするかもしれない。
『大日経』住心品には
「いかなるか菩提、いはく、実の如く自心を知る」
とあるのですが、自らの心を知ることが菩提=悟りです。
『十住心論』では、仏の心である第十心を「秘密荘厳心」としていますが、
ここにも、
自らの心の源底を覚知し、ありのままに自らの身体の数量を証悟する
と書かれています。
人間はその在りかたにおいて、固定した世界にいるのではなくて、
食と性のみで倫理道徳も無い第一住心から、悟りの心である第十心までを、行ったり来たりしています。
いつも心は一定ではなく、流れるように続いている。心だけではなく何でもそう。人生も一定でなく、毎日毎秒変化している。
自然も宇宙もあなたも、いつも違う顔をしている。だから自然を見てもあなたを見ても飽きることは無い。
心は地獄に住んだり極楽に住んだり、迷いの世界や悟り世界に、いろいろなところに住み替えています。
その時々に、自身のありかた、心身の行為=業を問うてみる。 すると世界が現われる。
問題はすべて自心の源底にある。
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※穀菜食の舎ページ
『夏の料理』
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/shintenan/4niLS4BZsRw
夏野菜は陰性で身体を冷ますので、陽性な暑い日にうまい。
トマト3個+麦味噌大さじ1+炊いた炒り玄米大さじ3くらいで炊くと、ちょうど良いトマトソースになります。そこに好みの野菜や調味料を足す。
トマトの酸味は身体を冷まして&腎臓の滋養になり、味噌はお腹を温め、炒り玄米が排毒を促します。
キュウリに味噌、トマトに塩だけでもうまいけれど、ドレッシングがあると夏野菜も楽しい。
ドレッシングの基本は酢と油。陰性同士だから混ざらない。
で、そこに陽性なものをちょっと足すとうまく混ざっておいしくなります。
ドレッシングの酸味と油のように、きのこと油揚げなど、油を溶かすものと新しい油、という組み合わせはすばらしい。
それはさておき、
先日、裏山で刈払機を使って下草刈りをしていたら、スズメバチの巣を壊して大騒ぎになりましたが、他にもマムシや何だかわからない毒虫もずいぶんいます。
人間は足も遅いし、爪やツノや牙などの鋭い武器も持っていないし、生き物の中でも弱い部類でしょうが、脳を使って生き延びています。
この脳を使う生きかたは千差万別ですが、僕らはその時々に応じて、心をいろいろな場所に住み替えて、生きかたを変えています。
お大師さんの『十住心論』では、第一住心を「異生羝羊心(いしょうていようしん)」と言いますが、性と食のみにしか関心が無く、倫理道徳も無いレベル。動物的本能だけ。
このレベルは因果の法則を理解せず、物事に執着する心ですから、実体的な自我や霊魂を信じる、というのもこのレベル。
霊魂があるということは自我もあるのでしょうから、それに執着するとき、迷いの世界にとらわれ、煩悩の鎖から逃れられなくなる。
『三教指帰』には、
天堂地獄は固定的な世界ではなく、その人の業(行為)の報いとして現れる心の世界
とあり、極楽や地獄などが実際にあるのではなく、自分の行為がそのような世界を心に招く、感じる、ということ。
また、
三界は家なし。六趣は不定なり。ある時は天堂を国と為し、有る時は地獄を家となす
とあるように、人は必ずしも固定した世界にいるのではなく、現世において心の住する世界は業によって、くるくる変わっている。
当たり前ですね。でも、昔はそうでもなかったのでしょうね。実際に鬼や怨霊や地獄があると思っていた。
業は果報を生じさせます。
たとえばウシやブタが屠殺されるときには非常に苦しむでしょうね。
まあ、代わりに自分が殺されるのだと思えば、その場は地獄ですね。
そのように、他のいのちを断つなどの業によって、それを食べなければ生きてゆけない場合は、どんな心に住しているかで、その人の業も随分と変わります。
密教は如来蔵思想といって、僕らはみな仏さまと本来同じレベルと考えています。元々、悟っている、と。
但し、煩悩に覆われているからそこに気がつかない、仏になれないでいるだけ。
煩悩の埃を取り除けば、そこに完全な仏が現れる。
だったら、地獄でも餓鬼でも異生羝羊心でもいいじゃないか、
というわけにはいかず、修行や規律正しい生活でないと、悩み迷い不安など煩悩の埃は取り除かれない。
でも、僕らが本来仏と同じようなすばらしい存在であることは事実なので、これは業の結果ではありません。
『声字実相義』には
衆生にまた本覚法身あり。仏と平等なり
三界六道の身及び土は業縁によって有なり。衆生の隨縁と名づく
とあり、僕らの意志に関わらず、僕らは仏なんです。
当然、過去世や他の霊魂による影響もありません。本質が仏ですから、いかなる業を積んでも、存在としては仏です。
ただし、生きている現世ではいろいろな問題があります。
その現世のありかたが問題になる。
例えば、地獄を招くのは前世の定めでは無く、現世での業と縁。つまり自分が何をしたか、ということ。
地獄は苦しみの世界なのでしょうが、苦しみというのは思い通りにはならないことですから、
ああ、思い通りにならなくて嫌になっちゃうなあ 。怠けちゃおうかなあ。ウソついてだましちゃおうかなあ。他人のことなんてどうでもいいよなあ。
と思う時に、心は地獄に住むようになる。
地獄に住んでいれば、地獄のようなことをするかもしれない。
『大日経』住心品には
「いかなるか菩提、いはく、実の如く自心を知る」
とあるのですが、自らの心を知ることが菩提=悟りです。
『十住心論』では、仏の心である第十心を「秘密荘厳心」としていますが、
ここにも、
自らの心の源底を覚知し、ありのままに自らの身体の数量を証悟する
と書かれています。
人間はその在りかたにおいて、固定した世界にいるのではなくて、
食と性のみで倫理道徳も無い第一住心から、悟りの心である第十心までを、行ったり来たりしています。
いつも心は一定ではなく、流れるように続いている。心だけではなく何でもそう。人生も一定でなく、毎日毎秒変化している。
自然も宇宙もあなたも、いつも違う顔をしている。だから自然を見てもあなたを見ても飽きることは無い。
心は地獄に住んだり極楽に住んだり、迷いの世界や悟り世界に、いろいろなところに住み替えています。
その時々に、自身のありかた、心身の行為=業を問うてみる。 すると世界が現われる。
問題はすべて自心の源底にある。
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※穀菜食の舎ページ
『夏の料理』
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