勝手口に積んである玉ねぎを見て、
これを丸かじりしたい、
と衝動的に思った。
ひとつ取り上げ、皮をむき、がりりと噛んだ。
泣きたいほど辛かった。
こういうことは、よくあることである。
嘘をつく、
という心の動きを考察してみると、
意識と自我と集合的無意識のつながりを発見できる。
これは、
嘘をつくことを正当化するのではない。
悪事を思う心を調べることと、
所詮、人間なんてそんなものよ、
などと、悪事を正当化することは違う。
仏教以外の教えを外道(げどう)と云う。
これは、
サンスクリット語のティールティカ(tīrthika)の訳語
『大日経』や『十住心論』では、
心を10段階に分けている。
最初のみっつは、
1、性欲と食欲の、生存するための心
2、施しなどの倫理が生まれる心
3、真理に憧れ、神や哲学を追求する心
ここまでは自我がある。仏教以前の心。
これを外道と云う。
神や霊魂などが実在する(自我がある)と考えるのが外道で、
自我による思い込みが、
迷いの原因である。
田中先生は『菩提心論講和』のなかで、
他人を救うことより、自分の悟りを優先させる、
自分がもっと力をつけてから、慈悲の行いをする、
というのは外道かもしれない
と書いている。
無我を知ると、
自他の区別が無くなる。
そうすると、慈悲の存在が当然のこととなる。
だれもが本来清浄で無限の心徳をもっているのだから、
一切衆生を利益し安楽しようとするのは当然
ということだろうか。
これを丸かじりしたい、
と衝動的に思った。
ひとつ取り上げ、皮をむき、がりりと噛んだ。
泣きたいほど辛かった。
こういうことは、よくあることである。
嘘をつく、
という心の動きを考察してみると、
意識と自我と集合的無意識のつながりを発見できる。
これは、
嘘をつくことを正当化するのではない。
悪事を思う心を調べることと、
所詮、人間なんてそんなものよ、
などと、悪事を正当化することは違う。
仏教以外の教えを外道(げどう)と云う。
これは、
サンスクリット語のティールティカ(tīrthika)の訳語
『大日経』や『十住心論』では、
心を10段階に分けている。
最初のみっつは、
1、性欲と食欲の、生存するための心
2、施しなどの倫理が生まれる心
3、真理に憧れ、神や哲学を追求する心
ここまでは自我がある。仏教以前の心。
これを外道と云う。
神や霊魂などが実在する(自我がある)と考えるのが外道で、
自我による思い込みが、
迷いの原因である。
田中先生は『菩提心論講和』のなかで、
他人を救うことより、自分の悟りを優先させる、
自分がもっと力をつけてから、慈悲の行いをする、
というのは外道かもしれない
と書いている。
無我を知ると、
自他の区別が無くなる。
そうすると、慈悲の存在が当然のこととなる。
だれもが本来清浄で無限の心徳をもっているのだから、
一切衆生を利益し安楽しようとするのは当然
ということだろうか。
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