僕がお山にいた時の伝授阿闍梨様で、元高野山大学学長、元高野山法印さま 中川善教先生の『絶戯台随想』(高野山出版社)を読み返す。
仏教では識を転じて智を得る、としています。
迷いの心を転じて悟りの心にする、ということ。
識は迷いの心で、
眼・耳・鼻・舌・身の五識
意識
自我
阿頼耶識(あらゆるものを生み出す根本的な識)
と八つあります。
これを悟りに変えるテクニックが仏教にあります。
それは、一切は空だと悟ること。
空であると知れば(固定した実体ではないのだから)、
欲の浅はかさに顔が赤らむ。
この世の決まりを破らぬ心構えが十分になる。
心の赴くままに進んで約束事を破らず、他人に迷惑をかけず、常に心豊かになる。
そして、
知識におぼれることのない人間に完成したところを、仏の智慧を得た、という。
これがさとりである。
要は、
とらわれない、かたよらない、こだわらない
今のその心に住してはいけない
何かと比べないで、それらを抱合してまえばいい。
なにがあっても、それだけのこと
すぐに変化してしまうのだから。
仏教では識を転じて智を得る、としています。
迷いの心を転じて悟りの心にする、ということ。
識は迷いの心で、
眼・耳・鼻・舌・身の五識
意識
自我
阿頼耶識(あらゆるものを生み出す根本的な識)
と八つあります。
これを悟りに変えるテクニックが仏教にあります。
それは、一切は空だと悟ること。
空であると知れば(固定した実体ではないのだから)、
欲の浅はかさに顔が赤らむ。
この世の決まりを破らぬ心構えが十分になる。
心の赴くままに進んで約束事を破らず、他人に迷惑をかけず、常に心豊かになる。
そして、
知識におぼれることのない人間に完成したところを、仏の智慧を得た、という。
これがさとりである。
要は、
とらわれない、かたよらない、こだわらない
今のその心に住してはいけない
何かと比べないで、それらを抱合してまえばいい。
なにがあっても、それだけのこと
すぐに変化してしまうのだから。
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