私が死んだらお葬式頼むわね。
なんて言われることがあります。
僕の方が先かもしれないのに
と最近では思わないこともないけれど。
先日は母が
これ、遺影にしてね。
と写真を持ってきた。
散骨の手続きをしてあるから、時間合わせてね
献体登録しているから、ご遺体無しで拝んでね
と、いろいろあります。
いずれにしても、家族遺族にしっかり伝えてください、と言います。
死に際は自分で決められるけれど、死後は身近な人の都合や気持ちもありますから。
例えば献体の場合、死後、お医者さんの役に立ってから、火葬する時に遺族へ連絡があります。
その時、お骨を持ち帰らないで処分してもらう、という方法もあります。
本人はそうしてもらいたい、と思っていても、その時家族がそうしてくれるかは難しい。
自らの死に際と死後のわがままはとても大切、と僕は思っています。
死に際がどうなるか、ぽっくり逝けるかどうかは、脳を作る食事と五感の刺激が大きく影響するでしょう。
さて、僕はどうしようかな。
人にはお釈迦さまやお大師さんのように、何かあればその場でピタッとわかるような鋭い人もいるけれど、何事にも鈍感で時間がかかり、歩みの鈍いのもいる。
僕は後者のようで、唯一僕に面と向かって真面目に意見してくれる妻の言葉を、理解するのにも20年くらいかかってしまう。
その妻の手相には向上線がある、ということも最近気がついた。
例えば、昔の偉人の手記を読む。
そして、自分もかくありたい、と願う。
でも、その手記は参考にもなるけれど、邪魔にもなる。
自分はあのように立派な事はできない、ということに直面する。
できない、届かないことを、どう理解するかが難しくなる。
自分の未熟さが原因なのに、おかしいな、何かがまちがっているんだ、と錯覚してしまうこともある。
自分の分限というものはなかなかわからない。
それでは死に際の準備もなかなかできない。妄想するだけになってしまう。
昭和36年6月3日
臨済の山本玄峰老師は断食後
旅に出る。きものを用意しろ
と短く言われて遷化された。96歳。
その550年ほど前
最乗寺の慧春尼は薪を積み上げ火を放ち
その中で坐禅をして定に入った。
そして
冷熱は生道人の知るところにあらず
(冷たい熱いということが、未熟な僧侶には分かるまい)
と言ったらしい。
お大師さまはこう言う。
迷いの世界の狂人は自分が狂っていることを知らない
生死の苦しみで眼の見えないものは、自分が見えないことが分からない
生れ生れ生れ生れても生の始めは分からない
死に死に死に死んでも死の終りは分からない
(『秘蔵宝鑰序』)
さて、
僕はどうしようかな。
※護摩の案内を更新しました。どうぞご覧ください。
http://shintenan.hanagasumi.net/
なんて言われることがあります。
僕の方が先かもしれないのに
と最近では思わないこともないけれど。
先日は母が
これ、遺影にしてね。
と写真を持ってきた。
散骨の手続きをしてあるから、時間合わせてね
献体登録しているから、ご遺体無しで拝んでね
と、いろいろあります。
いずれにしても、家族遺族にしっかり伝えてください、と言います。
死に際は自分で決められるけれど、死後は身近な人の都合や気持ちもありますから。
例えば献体の場合、死後、お医者さんの役に立ってから、火葬する時に遺族へ連絡があります。
その時、お骨を持ち帰らないで処分してもらう、という方法もあります。
本人はそうしてもらいたい、と思っていても、その時家族がそうしてくれるかは難しい。
自らの死に際と死後のわがままはとても大切、と僕は思っています。
死に際がどうなるか、ぽっくり逝けるかどうかは、脳を作る食事と五感の刺激が大きく影響するでしょう。
さて、僕はどうしようかな。
人にはお釈迦さまやお大師さんのように、何かあればその場でピタッとわかるような鋭い人もいるけれど、何事にも鈍感で時間がかかり、歩みの鈍いのもいる。
僕は後者のようで、唯一僕に面と向かって真面目に意見してくれる妻の言葉を、理解するのにも20年くらいかかってしまう。
その妻の手相には向上線がある、ということも最近気がついた。
例えば、昔の偉人の手記を読む。
そして、自分もかくありたい、と願う。
でも、その手記は参考にもなるけれど、邪魔にもなる。
自分はあのように立派な事はできない、ということに直面する。
できない、届かないことを、どう理解するかが難しくなる。
自分の未熟さが原因なのに、おかしいな、何かがまちがっているんだ、と錯覚してしまうこともある。
自分の分限というものはなかなかわからない。
それでは死に際の準備もなかなかできない。妄想するだけになってしまう。
昭和36年6月3日
臨済の山本玄峰老師は断食後
旅に出る。きものを用意しろ
と短く言われて遷化された。96歳。
その550年ほど前
最乗寺の慧春尼は薪を積み上げ火を放ち
その中で坐禅をして定に入った。
そして
冷熱は生道人の知るところにあらず
(冷たい熱いということが、未熟な僧侶には分かるまい)
と言ったらしい。
お大師さまはこう言う。
迷いの世界の狂人は自分が狂っていることを知らない
生死の苦しみで眼の見えないものは、自分が見えないことが分からない
生れ生れ生れ生れても生の始めは分からない
死に死に死に死んでも死の終りは分からない
(『秘蔵宝鑰序』)
さて、
僕はどうしようかな。
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