なんだかお腹が痛かったので、
あれこれと手当てをした。
お腹といっても、胃なのか腸なのか脾臓なのか、
いろいろあるだろうけれど、
それらは「私」の一部であるから、痛いのは「私」。
そちらから見ればお腹だけれど、こちらから見れば私である。
金で造られた象に、鼻があり耳がある。
差別区別する側から見れば、鼻であり耳であるけれど、
平等性の立場からみれば、どれも金である。
水と波も同じで、
波はそれぞれ別なものだけれど、本来は水。
さらに、
鼻でも耳でも、それは仮にそう決めたもので、
どこからどこまでが鼻とか耳とか厳密に決定はできないから、
象総てが鼻であるといっても間違いでは無い。
つまり、
差別が平等になるのである。
宇宙も同じであり、
差別性からみれば「あなた」であり「私」であるけれど、
平等性からみれば、みな宇宙。
その「私」の中も宇宙と同じ。
ギョーカイのなかで、僕がいるグループは、
諸法は実相である、と考えている。
あらゆるものは真実である
すべてのものは真実の姿を表している
ということ。
象も水も、
内臓も私も、
宇宙もである。
すると、
真実=宇宙=私=その他全部
ということになる。
この真実を密教では本不生(ほんぷしょう)と云う。
本来、生じたり滅したりしない、ということ。
宇宙も私も本性は空であるから不生不滅である、
というのは、悟りの側からの真実で、
現実にある宇宙や私には、必ず始まりと終わりがある、
というのが俗世間の真実。
この二つの真実が本不生。
それは三摩地(心の源底を知る)の瞑想によって悟る。
その時、
私は宇宙。
その状態は清浄心であり、
清浄だから(愚かさの迷いに汚れていないから)慈悲にあふれ、
自他を救い、役に立つ。
よって苦悩は無くなる。
『大日経』に、
我、本不生を覚り、
言葉を越えて
罪過より解放され、
原因と条件の束縛から離れ、
智慧の空は虚空に等しいと知る
『菩提心論』には、
あらゆる智慧を求めて、
菩提心の三摩地を修習し通達すれば、
迷いの肉身そのままに
速やかに、まどかなさとり を証する
とある。
まとめると、
「私」も宇宙も、
そのままに不生不滅の真如である。
だから円融無碍し、
私と宇宙(仏)は不二である。
これは、
三摩地の法によって覚り、
その根底には、
私たちが本来備えている清浄な菩提心がある。
あれこれと手当てをした。
お腹といっても、胃なのか腸なのか脾臓なのか、
いろいろあるだろうけれど、
それらは「私」の一部であるから、痛いのは「私」。
そちらから見ればお腹だけれど、こちらから見れば私である。
金で造られた象に、鼻があり耳がある。
差別区別する側から見れば、鼻であり耳であるけれど、
平等性の立場からみれば、どれも金である。
水と波も同じで、
波はそれぞれ別なものだけれど、本来は水。
さらに、
鼻でも耳でも、それは仮にそう決めたもので、
どこからどこまでが鼻とか耳とか厳密に決定はできないから、
象総てが鼻であるといっても間違いでは無い。
つまり、
差別が平等になるのである。
宇宙も同じであり、
差別性からみれば「あなた」であり「私」であるけれど、
平等性からみれば、みな宇宙。
その「私」の中も宇宙と同じ。
ギョーカイのなかで、僕がいるグループは、
諸法は実相である、と考えている。
あらゆるものは真実である
すべてのものは真実の姿を表している
ということ。
象も水も、
内臓も私も、
宇宙もである。
すると、
真実=宇宙=私=その他全部
ということになる。
この真実を密教では本不生(ほんぷしょう)と云う。
本来、生じたり滅したりしない、ということ。
宇宙も私も本性は空であるから不生不滅である、
というのは、悟りの側からの真実で、
現実にある宇宙や私には、必ず始まりと終わりがある、
というのが俗世間の真実。
この二つの真実が本不生。
それは三摩地(心の源底を知る)の瞑想によって悟る。
その時、
私は宇宙。
その状態は清浄心であり、
清浄だから(愚かさの迷いに汚れていないから)慈悲にあふれ、
自他を救い、役に立つ。
よって苦悩は無くなる。
『大日経』に、
我、本不生を覚り、
言葉を越えて
罪過より解放され、
原因と条件の束縛から離れ、
智慧の空は虚空に等しいと知る
『菩提心論』には、
あらゆる智慧を求めて、
菩提心の三摩地を修習し通達すれば、
迷いの肉身そのままに
速やかに、まどかなさとり を証する
とある。
まとめると、
「私」も宇宙も、
そのままに不生不滅の真如である。
だから円融無碍し、
私と宇宙(仏)は不二である。
これは、
三摩地の法によって覚り、
その根底には、
私たちが本来備えている清浄な菩提心がある。
PR