市販の「ダシの素」のように簡単に使える無添加精進出汁の素
野菜がたくさん摂れるおいしいふりかけ、もちろん無添加
そういうものがあると便利ですよね。
はい、作る方向で話が進んでいます。乞う、ご期待。
それはさておき、
僕は歩くのが好きで、若いころから時間を見つけてはひとりで町や山を歩いていました。
中でも巡礼や遍路は、苦しくても歩けばその先に必ず仏さまがいる、という安心感のある旅だった。
お金を一切持たずに歩いたり、雪と濃霧の出羽三山で途方に暮れたり、春秋美しい山々の秩父札所を何度も廻ったり・・・。
そんなに遠くへ行かなくても、コンビニへにお酒を買いに歩くだけでも楽しい。
ひとり歩くのは楽しい。何かマニアックな気持ちになります。
四国八十八か所霊場が開創1200年ということになっております。
http:// www.88s hikokuh enro.jp /1200.h tml
これから春になると花へんろ。お四国を廻るお遍路さんが増えてきます。
遍路という言葉は本来「辺路(へじ)」、都から離れた田舎の道、海辺の道といった程度の意味でした。
今では、四国の道を歩いて修行するのが遍路ですが、
平安時代頃には修験者の修行の道でした。
香川で生まれたお大師さんは、徳島の太龍寺や高知室戸岬で修行をして光明を得ましたが、
その後、修行僧らがお大師さんの足跡を辿って遍歴の旅を始めたのが、四国遍路の原型とされます。
江戸時代初期には修行僧だけではなく、庶民も遍路を始めています。
17世紀真念さんの『四国遍路道指南』
真言僧・寂本さんの『四国偏礼霊場記』 (現代語訳が教育社新書から出ています)
などのガイドブックも出ているくらい、ポピュラーになったようです。
元々は修行カリキュラムのひとつが遍路ですが、先祖供養や病気平癒などの祈願、また現代では信仰ではなく、いわゆる自分探しなどの巡礼者が増えています。
四国八十八か所1200キロは、一日30キロペースで歩けば40日。でも、これはちとキツイ。
全部を歩くにはお金と時間が必要で、現代では贅沢な修行とも言えますが、僕もいつかまた歩きたい。
単調なことをいつ終わるともなく繰り返すことは、心の純化にとても効果があり、清い温かい心の持続を呼びます。
だから、百日でも二百日でもかけて、法楽とか優遊とかの境地をうかがい味わいたい。
遍路や巡礼は、
祈りだけの一日を心行くまで過ごせる
ひたすら歩く、足が痛くてもお腹がすいても歩く
毎日クタクタになることで、
ひとり、孤独な時を過ごせる
そこには心を乱す人の気配や無駄なお喋りが無い。
ただ歩く、ひとりで歩く、このような単純な繰り返しが精神を発達させ、明日死ぬかもしれない自分と徹底的に向き合うことができます。そうすることで心は純化する。
絶対なる孤独に徹することでお大師さんと同行二人 になる。
信は願によって増大し、行ずることによって、その真に到達する
雨の日も風の日も同じように歩くことで、鍛錬は積み重なる
これが生きる自信になる。
頭で知ることと身体で知ることはずいぶんと違います。
一歩一歩進む
何度も何度も唱える
ただ座り続ける
身体を床にたたきつけるように五体投地を何度も続ける 。
本や勉強で理解することもできるけれど、思想が飛ぶ可能性が高い。
それでは納得できないようなことが、身体を使う修行修練によって身につくと、僕は考えています。
__________________________________
※穀菜食の舎ページ更新しました 。
「 肝臓と食事」: http://shintenan.syoyu.net/Entry/353/
野菜がたくさん摂れるおいしいふりかけ、もちろん無添加
そういうものがあると便利ですよね。
はい、作る方向で話が進んでいます。乞う、ご期待。
それはさておき、
僕は歩くのが好きで、若いころから時間を見つけてはひとりで町や山を歩いていました。
中でも巡礼や遍路は、苦しくても歩けばその先に必ず仏さまがいる、という安心感のある旅だった。
お金を一切持たずに歩いたり、雪と濃霧の出羽三山で途方に暮れたり、春秋美しい山々の秩父札所を何度も廻ったり・・・。
そんなに遠くへ行かなくても、コンビニへにお酒を買いに歩くだけでも楽しい。
ひとり歩くのは楽しい。何かマニアックな気持ちになります。
四国八十八か所霊場が開創1200年ということになっております。
http://
これから春になると花へんろ。お四国を廻るお遍路さんが増えてきます。
遍路という言葉は本来「辺路(へじ)」、都から離れた田舎の道、海辺の道といった程度の意味でした。
今では、四国の道を歩いて修行するのが遍路ですが、
平安時代頃には修験者の修行の道でした。
香川で生まれたお大師さんは、徳島の太龍寺や高知室戸岬で修行をして光明を得ましたが、
その後、修行僧らがお大師さんの足跡を辿って遍歴の旅を始めたのが、四国遍路の原型とされます。
江戸時代初期には修行僧だけではなく、庶民も遍路を始めています。
17世紀真念さんの『四国遍路道指南』
真言僧・寂本さんの『四国偏礼霊場記』 (現代語訳が教育社新書から出ています)
などのガイドブックも出ているくらい、ポピュラーになったようです。
元々は修行カリキュラムのひとつが遍路ですが、先祖供養や病気平癒などの祈願、また現代では信仰ではなく、いわゆる自分探しなどの巡礼者が増えています。
四国八十八か所1200キロは、一日30キロペースで歩けば40日。でも、これはちとキツイ。
全部を歩くにはお金と時間が必要で、現代では贅沢な修行とも言えますが、僕もいつかまた歩きたい。
単調なことをいつ終わるともなく繰り返すことは、心の純化にとても効果があり、清い温かい心の持続を呼びます。
だから、百日でも二百日でもかけて、法楽とか優遊とかの境地をうかがい味わいたい。
遍路や巡礼は、
祈りだけの一日を心行くまで過ごせる
ひたすら歩く、足が痛くてもお腹がすいても歩く
毎日クタクタになることで、
ひとり、孤独な時を過ごせる
そこには心を乱す人の気配や無駄なお喋りが無い。
ただ歩く、ひとりで歩く、このような単純な繰り返しが精神を発達させ、明日死ぬかもしれない自分と徹底的に向き合うことができます。そうすることで心は純化する。
絶対なる孤独に徹することでお大師さんと同行二人 になる。
信は願によって増大し、行ずることによって、その真に到達する
雨の日も風の日も同じように歩くことで、鍛錬は積み重なる
これが生きる自信になる。
頭で知ることと身体で知ることはずいぶんと違います。
一歩一歩進む
何度も何度も唱える
ただ座り続ける
身体を床にたたきつけるように五体投地を何度も続ける 。
本や勉強で理解することもできるけれど、思想が飛ぶ可能性が高い。
それでは納得できないようなことが、身体を使う修行修練によって身につくと、僕は考えています。
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※穀菜食の舎ページ更新しました 。
「 肝臓と食事」: http://shintenan.syoyu.net/Entry/353/
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