きゅうりのネットを張り、ナスとピーマンの支柱を立てていたら、
隣の畑のおじさんが、
腰が痛くならないかい?
と聞いてきた。
望診法では、
腎膀胱系に古塩がたまった陽性症状と診ますので、腰部を温めて大根湯を飲みますが、
股関節が固いと腰痛になりやすい。どこでも痛いのは固いからで陽性過多。
陰性な野菜をたくさん食べて、ストレッチや運動で柔らかくしましょう。
それはさておき、
お位牌に書く戒名の一番上に「ア」という音の梵字を書きます。
これは和尚さんの考えによるので、書かない人もいる。
このアは口を開いて発生する最初の音,
サンスクリット語のアルファベットで最初の文字。
なので、
文字のもと、源泉。アがあるからイ、ウ、エ、オやカ、サ、マ、バなどの音が生まれる。
そういうことから、
ア字はあらゆる言語の本源。
これに対して、
口を閉じて発生する最後の字音がウン。同じくサンスクリット語のアルファベットで最終の字。
だから、
阿吽(アウン) はものの最初と最後のこと、とされます。
仏教、特に密教は悟りをシンボリックに表現しますが、
字音の最初である「阿」は一切の根源、
最後の「吽」は 一切の帰着を象徴します。
つまり、
本来の混じり気無い心と、悟りの象徴。
僕らはすべての物事に名前をつけて認識理解しますが、
それらが何から生じているのか、それをどんどん探してもわからない。
たとえば、肉体は筋肉と骨と血などで出来ていて、
それらは細胞から作られ、
その細胞は、元素から作られ、
といくらたどっても、次から次へと原因が原因を生じさせて、存在の本源は永遠に不明。
だから、
あらゆる存在の本源を極めるなら、それはあるがままに存在しているものであり、原因によって生じたものではないもの。
密教では本不生(ほんぶしょう)と云いますが、それを「ア字」によって象徴します。
そして、
あらゆるものが原因と条件から生じていますが、
すべてのものは常に変化しているから、変化しつづけていることが存在の本質で、
その変化をいくら辿っても、固定的な実体は見つけられない。
それを「ウン字」が象徴している。
つまり、
あなたも僕も宇宙も元素も、
妙なるもので、存在が真実である
ということ。
『吽字義』には、
僕らが本来持っている清浄な心の力を因として、
やさしさと思いやりを根本とし、
それによって自然に湧き出る行動、言葉、思いを究極として、
自他の悟り(平安なしあわせ)に至る。
この、生きることの理念を阿吽が現している、
とあります。
それは、
すべてのいのちとともに生きる喜び
という境地。
隣の畑のおじさんが、
腰が痛くならないかい?
と聞いてきた。
望診法では、
腎膀胱系に古塩がたまった陽性症状と診ますので、腰部を温めて大根湯を飲みますが、
股関節が固いと腰痛になりやすい。どこでも痛いのは固いからで陽性過多。
陰性な野菜をたくさん食べて、ストレッチや運動で柔らかくしましょう。
それはさておき、
お位牌に書く戒名の一番上に「ア」という音の梵字を書きます。
これは和尚さんの考えによるので、書かない人もいる。
このアは口を開いて発生する最初の音,
サンスクリット語のアルファベットで最初の文字。
なので、
文字のもと、源泉。アがあるからイ、ウ、エ、オやカ、サ、マ、バなどの音が生まれる。
そういうことから、
ア字はあらゆる言語の本源。
これに対して、
口を閉じて発生する最後の字音がウン。同じくサンスクリット語のアルファベットで最終の字。
だから、
阿吽(アウン) はものの最初と最後のこと、とされます。
仏教、特に密教は悟りをシンボリックに表現しますが、
字音の最初である「阿」は一切の根源、
最後の「吽」は 一切の帰着を象徴します。
つまり、
本来の混じり気無い心と、悟りの象徴。
僕らはすべての物事に名前をつけて認識理解しますが、
それらが何から生じているのか、それをどんどん探してもわからない。
たとえば、肉体は筋肉と骨と血などで出来ていて、
それらは細胞から作られ、
その細胞は、元素から作られ、
といくらたどっても、次から次へと原因が原因を生じさせて、存在の本源は永遠に不明。
だから、
あらゆる存在の本源を極めるなら、それはあるがままに存在しているものであり、原因によって生じたものではないもの。
密教では本不生(ほんぶしょう)と云いますが、それを「ア字」によって象徴します。
そして、
あらゆるものが原因と条件から生じていますが、
すべてのものは常に変化しているから、変化しつづけていることが存在の本質で、
その変化をいくら辿っても、固定的な実体は見つけられない。
それを「ウン字」が象徴している。
つまり、
あなたも僕も宇宙も元素も、
妙なるもので、存在が真実である
ということ。
『吽字義』には、
僕らが本来持っている清浄な心の力を因として、
やさしさと思いやりを根本とし、
それによって自然に湧き出る行動、言葉、思いを究極として、
自他の悟り(平安なしあわせ)に至る。
この、生きることの理念を阿吽が現している、
とあります。
それは、
すべてのいのちとともに生きる喜び
という境地。
PR