ずいぶん前から
純子 雅子 和子 花子 春子 茄子など、
「子」がつく子どもの名が少なくなりましたが、昨夜は餃子。
炊いた炒り玄米+ニラ+白菜を塩コショウして寝かせ
皮に包んで焼きます。
焼き餃子はフライパンをカンカンに熱くして餃子を並べ
すぐにお湯を注いで(湯がはねるので注意)蓋をして蒸し焼き 。
皮が半透明になったらお湯を捨て、ごま油を回してじりじりと焦げ目がつくまで焼きます。
炒り玄米+香味野菜+塩気は秘密の効果がいっぱい。
陰陽のバランスを調え、排毒によろしい。
焼いたり揚げたりするときの溶き衣には、いろいろ混ぜることができます。
海苔を混ぜれば磯部
青海苔で青海
ゴマで利休
唐辛子で南蛮
ケシの実で松風
松風焼きの「松風」は能由来ですが、
ケシの実をつけるのは表面だけ、裏にはつけない。
裏が無い、つまり隠し事がない正直な様子を表す料理です。
写真は黒ゴマと青海苔で焼いた生麩。
さて、
今月二十八日の初不動で護摩供を修法してから、祈願をされたかたにおたよりを出しました。
・・・
皆様の平安と諸願をご祈祷いたしましたのでご安心ください。
護摩は心を解放する修行と共に各位のご祈祷をしますが、本尊の供養と縁者の回向もします。
供養はサンスクリット語「プージャー」の訳で意味は「尊敬」。相手を尊敬して拝むのが供養です。
回向は「パリナーマ」の訳で「あまねく振り向けること」。良い行為がもたらす功徳を、他に振り向け施すことです。
葬儀、法事、お祭り、祈祷、巡礼など、経や真言を唱えた最後には多くの場合、
「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」 ( 『妙法蓮華経』 化城喩品第七)
を唱えます。
「願わくば この功徳をもって あまねく一切に及ぼし 我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜん」
ということですが、
尊敬し優しい心で拝む、という良い行為の結果が、あらゆる人の幸せにつながりますように、ということです。
・・・・
自分の善行の結果は他に向かってめぐります。
善行の報いは本来自分に還りますが、仏教では一切が空、実体はなく縁と条件で成り立つ、と考えます。
つまり、あらゆるものは他の何かに寄り添い、支え合って相互依存していなければ存在できません。
ダライラマはこれを「dependent origination」と言っています。
ですから、
自分が行った善の報いは他に転回します。
それが回向であり、そのために僕らは祈り、拝みます。
祈りは心を柔らかく強くすることができますが、普段の生活では色々な障害があり、時には押しつぶされそうな気持になることもあります。
そんな時、心を強くするトレーニングがあればいい。
仏教はお釈迦さま以来、心を論理的に検証し、実践的にそれをとらえようとしてきました。
その結果、空とか縁起とか唯識とか瑜伽とかの思想と、坐禅瞑想などのカリキュラムが完成します。
心はこういうものである、それを知るにはこんな修行方法がある。
だから、心が乱れたら、こうすれば良い。
というトレーニング。
そんなことができる道場を作りたいなあ、
と思って探していたら、
栃木県小山市に相応な物件を見つけたのですが、
家の価格と祭壇の荘厳で1500万円くらいかかりそう。
うーん。
ちょっと難しいけれど何とかしたいなあ。
純子 雅子 和子 花子 春子 茄子など、
「子」がつく子どもの名が少なくなりましたが、昨夜は餃子。
炊いた炒り玄米+ニラ+白菜を塩コショウして寝かせ
皮に包んで焼きます。
焼き餃子はフライパンをカンカンに熱くして餃子を並べ
すぐにお湯を注いで(湯がはねるので注意)蓋をして蒸し焼き 。
皮が半透明になったらお湯を捨て、ごま油を回してじりじりと焦げ目がつくまで焼きます。
炒り玄米+香味野菜+塩気は秘密の効果がいっぱい。
陰陽のバランスを調え、排毒によろしい。
焼いたり揚げたりするときの溶き衣には、いろいろ混ぜることができます。
海苔を混ぜれば磯部
青海苔で青海
ゴマで利休
唐辛子で南蛮
ケシの実で松風
松風焼きの「松風」は能由来ですが、
ケシの実をつけるのは表面だけ、裏にはつけない。
裏が無い、つまり隠し事がない正直な様子を表す料理です。
写真は黒ゴマと青海苔で焼いた生麩。
さて、
今月二十八日の初不動で護摩供を修法してから、祈願をされたかたにおたよりを出しました。
・・・
皆様の平安と諸願をご祈祷いたしましたのでご安心ください。
護摩は心を解放する修行と共に各位のご祈祷をしますが、本尊の供養と縁者の回向もします。
供養はサンスクリット語「プージャー」の訳で意味は「尊敬」。相手を尊敬して拝むのが供養です。
回向は「パリナーマ」の訳で「あまねく振り向けること」。良い行為がもたらす功徳を、他に振り向け施すことです。
葬儀、法事、お祭り、祈祷、巡礼など、経や真言を唱えた最後には多くの場合、
「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」 ( 『妙法蓮華経』 化城喩品第七)
を唱えます。
「願わくば この功徳をもって あまねく一切に及ぼし 我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜん」
ということですが、
尊敬し優しい心で拝む、という良い行為の結果が、あらゆる人の幸せにつながりますように、ということです。
・・・・
自分の善行の結果は他に向かってめぐります。
善行の報いは本来自分に還りますが、仏教では一切が空、実体はなく縁と条件で成り立つ、と考えます。
つまり、あらゆるものは他の何かに寄り添い、支え合って相互依存していなければ存在できません。
ダライラマはこれを「dependent origination」と言っています。
ですから、
自分が行った善の報いは他に転回します。
それが回向であり、そのために僕らは祈り、拝みます。
祈りは心を柔らかく強くすることができますが、普段の生活では色々な障害があり、時には押しつぶされそうな気持になることもあります。
そんな時、心を強くするトレーニングがあればいい。
仏教はお釈迦さま以来、心を論理的に検証し、実践的にそれをとらえようとしてきました。
その結果、空とか縁起とか唯識とか瑜伽とかの思想と、坐禅瞑想などのカリキュラムが完成します。
心はこういうものである、それを知るにはこんな修行方法がある。
だから、心が乱れたら、こうすれば良い。
というトレーニング。
そんなことができる道場を作りたいなあ、
と思って探していたら、
栃木県小山市に相応な物件を見つけたのですが、
家の価格と祭壇の荘厳で1500万円くらいかかりそう。
うーん。
ちょっと難しいけれど何とかしたいなあ。
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