昨日の初午、
今日の節分、
来月10日の旧初午、
と厄除けを拝む季節です。
厄年に根拠は無く、
営業的戦略のひとつかと思いますが、
厄年だから厄除けする、
では遅いような気もします。
厄除けについては、
『如意輪陀羅尼経』に、
厄を除くことが観音の本誓である、と書かれています。
午の日に厄除け祈願するのは、馬頭観音の縁と思われますが、
観音の陀羅尼を唱えることが厄をはらう力になります。
陀羅尼は、心を静かにまとめること、つまり瞑想修行。
そうすることで、智慧(向上心)と慈悲(思いやり)が増長する。
智慧と慈悲があれば、厄払いになる。
いづれにしても、
毎日拝み、
普段から健康に気をつけるのが良いでしょう。
今日の節分、
来月10日の旧初午、
と厄除けを拝む季節です。
厄年に根拠は無く、
営業的戦略のひとつかと思いますが、
厄年だから厄除けする、
では遅いような気もします。
厄除けについては、
『如意輪陀羅尼経』に、
厄を除くことが観音の本誓である、と書かれています。
午の日に厄除け祈願するのは、馬頭観音の縁と思われますが、
観音の陀羅尼を唱えることが厄をはらう力になります。
陀羅尼は、心を静かにまとめること、つまり瞑想修行。
そうすることで、智慧(向上心)と慈悲(思いやり)が増長する。
智慧と慈悲があれば、厄払いになる。
いづれにしても、
毎日拝み、
普段から健康に気をつけるのが良いでしょう。
左から、
「玄米ポリッポリ」
「Best Always]
大滝詠一のオールタイムベストアルバム。
聴いているだけでしあわせになる
『葬送の仕事師たち』
葬儀屋さん、エンバーマー、納棺師、復元師など、葬送のプロを取材したルポ。
特に、
ご遺体をきれいに焼くため努力する火葬場職員の話は荘厳で圧巻。
我即大日、我即法界は、真言密教の基本。
大日は真如、
法界は、
法が六大、界が蔵であり体。
そして、
全ての存在は大日の三昧耶形。
霊園へ行くと、いろいろな塔婆が見られる。
観音経の文句や、念仏、お題目なども書かれている。
何でもいいのだろうか。
塔婆の上部は五輪に似せて刻みが入っています。
なぜなら、
塔婆は大日如来の三昧耶形だから。
五輪は五大(地・水・火・風・空)をあらわし、
それは大日如来のことでもある。
なので、
表には胎蔵大日を現す五字、
裏には金剛界大日を現すバン字を書く。
大日は法界だから、
塔婆も宇宙法界を表したもの。
それは、
自性清浄心、つまり自心のこと。
『金剛界次第」などでは、
五相成身観・証金剛身のところで、
「自身卒塔婆の如くなりと思惟すべし」
とあるけれど、
本来は卒塔婆ではなく制底ではないだろうか。
仏塔のうち、
卒塔婆(塔婆:ストゥーパ)は仏舎利を収め、
仏舎利なしが制底(チャイトヤ)である。
もっとも、
『秘蔵記』に、
「卒塔婆はバンの一字の所成なり。また、アビラウンケンの五字の所成なり」
とあるから、
ずいぶん昔から、その違いは関係なくなっているみたい。
いづれにしても、
霊園や墓地にある塔婆は、
大日であり、悟りの象徴であり、瞑想対象である。
大日は真如、
法界は、
法が六大、界が蔵であり体。
そして、
全ての存在は大日の三昧耶形。
霊園へ行くと、いろいろな塔婆が見られる。
観音経の文句や、念仏、お題目なども書かれている。
何でもいいのだろうか。
塔婆の上部は五輪に似せて刻みが入っています。
なぜなら、
塔婆は大日如来の三昧耶形だから。
五輪は五大(地・水・火・風・空)をあらわし、
それは大日如来のことでもある。
なので、
表には胎蔵大日を現す五字、
裏には金剛界大日を現すバン字を書く。
大日は法界だから、
塔婆も宇宙法界を表したもの。
それは、
自性清浄心、つまり自心のこと。
『金剛界次第」などでは、
五相成身観・証金剛身のところで、
「自身卒塔婆の如くなりと思惟すべし」
とあるけれど、
本来は卒塔婆ではなく制底ではないだろうか。
仏塔のうち、
卒塔婆(塔婆:ストゥーパ)は仏舎利を収め、
仏舎利なしが制底(チャイトヤ)である。
もっとも、
『秘蔵記』に、
「卒塔婆はバンの一字の所成なり。また、アビラウンケンの五字の所成なり」
とあるから、
ずいぶん昔から、その違いは関係なくなっているみたい。
いづれにしても、
霊園や墓地にある塔婆は、
大日であり、悟りの象徴であり、瞑想対象である。
痔の気が出たので、
療術師の妻に教わり、毎日お尻を燻(いぶ)しています。

テルミー線を5本、
ボキボキ小さく折って火をつけ、
ポータブルトイレの中に入れて煙を出し、
便座に坐って20分。
その間、ゆっくり本を読む。
症状の改善はもとより、何とも気持ちがいい。
あの辺の血行が良くなるから、いろいろ効果がありそう。
何より、
ケツを温めるのは気持ちよく、
癖になる。
療術師の妻に教わり、毎日お尻を燻(いぶ)しています。
テルミー線を5本、
ボキボキ小さく折って火をつけ、
ポータブルトイレの中に入れて煙を出し、
便座に坐って20分。
その間、ゆっくり本を読む。
症状の改善はもとより、何とも気持ちがいい。
あの辺の血行が良くなるから、いろいろ効果がありそう。
何より、
ケツを温めるのは気持ちよく、
癖になる。
お経や真言や陀羅尼は、
内容を理解して、正しく唱えなければ意味がありません。
そうでないなら、何でもよくなってしまう。
恋人の名前を間違って呼んだら、ちょっとねえ。
まあ、それはそれでもいいけれど。
そして、
お経や真言は、お堂の中でのみ唱えるのではなく、
日常の中で唱え、生きかたと合致させるのがいい。
ところで、
梵字や真言を印刷したTシャツが売られていますが、
真言を身につけているようで、おもしろい。
使い捨てカイロのように、背中やお腹に貼れればもっとおもしろい。
という思いから、
持ち歩けるような、真言(マントラ)カードを作りました。
バッグやカバンではなく、ポケットに入れて持ち歩いてください。
先着20名に差し上げます。
赤か青、ご希望の色をご連絡ください。
おまじないとしては、とてもクオリティが高いはず。
※2019.2.13追記
別デザイン、作りました。
さて、
大乗仏教には、
言葉を否定するような面があります。
なぜなら、
言葉の対象は、言葉の意味に他ならないから。
たとえば、
月を観る時 、月そのものを観ているのではなく、
多くの場合、「月」という言葉の意味を見ています。
言葉の意味を本物の「月」に与えている。
すると、月は常住で普遍的なものになってしまい、それは事実では無い。
事実というのは、
多くの原因や条件によって生じ、
他のものと相対的にのみ存在し、無常であり、複合的なものです。
しかし、密教は言葉を重要視します。
世界は仏の現れ(マンダラ)であり、
あなたも僕も動物植物鉱物みな、仏の象徴です。
だから、
僕らの働きは仏の働きであり、
世の中の音は全て仏の声、音のマンダラ。
密教の修行は、
象徴と象徴されるものの一致を目指します。
簡単に云えば、
似ているものは同じものである
という境界。
仏の言葉である真言を唱え、身につければ仏になる。
ですから、
真言などの音声は、
合理的な言葉では無いけれど、
修行によってその意味を発見するもので、
言葉というより「行為」になります。
声字は実相、
つまり、
仏を、悟りを、真如を表現する方法のひとつが言葉。
今回、真言カードに書いたのは十一面観音の真言。
読みかたは 、
om mahākāruņika svāhā
おん まかーきゃーろに(でぃ)きゃ すばーはー
意味は、
大悲を持てるものよ
心はころころと変わるものである。
お酒が好きだったころは ,
酒もを飲まないヤツはロクなもんじゃねえ、
なんて思っていたけれど、それが間違いであることはあきらかである。
飲めない、飲まないけれど立派な人は大勢いる。
酒を止めてみると、
なんであんなものを飲んでいたのかと思う。
時間もお金も無駄遣いしていたようにも感じる。
酒を飲んでの会話は、すべてたわ言である。
しかし、
心がこのように変わることで、
何かを我慢するのではなく、そこから自然と離れる、
ということにもなる。
どんなことでも、
思いようで人は変わり、
良いことをしようと努力しなくても、それに近づき、
悪いことをしないように工夫しなくても、いつの間にか離れる。
お酒が好きだったころは ,
酒もを飲まないヤツはロクなもんじゃねえ、
なんて思っていたけれど、それが間違いであることはあきらかである。
飲めない、飲まないけれど立派な人は大勢いる。
酒を止めてみると、
なんであんなものを飲んでいたのかと思う。
時間もお金も無駄遣いしていたようにも感じる。
酒を飲んでの会話は、すべてたわ言である。
しかし、
心がこのように変わることで、
何かを我慢するのではなく、そこから自然と離れる、
ということにもなる。
どんなことでも、
思いようで人は変わり、
良いことをしようと努力しなくても、それに近づき、
悪いことをしないように工夫しなくても、いつの間にか離れる。
新幹線車中で具合が悪くなり、
どうしようもないから、うづくまって般若心経を唱えていたら回復した。
般若心経はやっぱりすごいですよ
と年配の女性が云う。
こういう話はよく聞きます。
お経を唱えれば願いがかなう
などということは、あるわけがない。
お経に書いてあるように修行して真如を悟れば、
人格が向上し、心に混じりけがなくなり、
自我への執着がなくなるので願いがかなうのである。
同じように、
お経を唱えれば故人が成仏するのではなく、
お経に書いてあるような生きかたをして、
仲良く楽しく暮らし、立派な人になれば、故人の供養になる、
ということでしょう。
般若心経には
色即是空とか、不生不滅とか、空などの説明が書かれています。
それを支えるものは瞑想修行。
宇宙の成り立ちを物理化学数学で考え、
望遠鏡や人工衛星で確認するのと同じかな。
ある対象に注意を集中して瞑想を続けると、
その対象の名前や形は消え、
迷い不安悩み苦しみなどの、
考えるもの、表現されるもの、知覚されるものも消え、
最後まで残っている最高の真実は、
生じもせず、滅しもせず、作られたものでもなく、変化もない 。
それはすべての規定を離れて、静寂で清浄。
迷い、苦しみは無い。
それが色即是空、不生不滅、空。
お経を唱えるだけでは何もわからない。
ところで、
『般若心経秘鍵』には、
その空の世界はまだ二流で、完全なものではないと書かれています。
密教は、
自分が宇宙本体(仏)そのものになる、
という瞑想修行によって、
世俗をそのまま最高の真実に引き上げようとします。
その時、
行者は真実そのものになる。
今の世界、今の自分を転換して、
再評価するのです。
どうしようもないから、うづくまって般若心経を唱えていたら回復した。
般若心経はやっぱりすごいですよ
と年配の女性が云う。
こういう話はよく聞きます。
お経を唱えれば願いがかなう
などということは、あるわけがない。
お経に書いてあるように修行して真如を悟れば、
人格が向上し、心に混じりけがなくなり、
自我への執着がなくなるので願いがかなうのである。
同じように、
お経を唱えれば故人が成仏するのではなく、
お経に書いてあるような生きかたをして、
仲良く楽しく暮らし、立派な人になれば、故人の供養になる、
ということでしょう。
般若心経には
色即是空とか、不生不滅とか、空などの説明が書かれています。
それを支えるものは瞑想修行。
宇宙の成り立ちを物理化学数学で考え、
望遠鏡や人工衛星で確認するのと同じかな。
ある対象に注意を集中して瞑想を続けると、
その対象の名前や形は消え、
迷い不安悩み苦しみなどの、
考えるもの、表現されるもの、知覚されるものも消え、
最後まで残っている最高の真実は、
生じもせず、滅しもせず、作られたものでもなく、変化もない 。
それはすべての規定を離れて、静寂で清浄。
迷い、苦しみは無い。
それが色即是空、不生不滅、空。
お経を唱えるだけでは何もわからない。
ところで、
『般若心経秘鍵』には、
その空の世界はまだ二流で、完全なものではないと書かれています。
密教は、
自分が宇宙本体(仏)そのものになる、
という瞑想修行によって、
世俗をそのまま最高の真実に引き上げようとします。
その時、
行者は真実そのものになる。
今の世界、今の自分を転換して、
再評価するのです。
成仏は仏教の理想、目的です。
成仏とは、仏陀(ブッダ)に成ること。
仏陀とは、目覚めた人、悟った人。
何に目覚め、何を悟るかといえば、法(ダルマ:宇宙の真理)
その中身は、
存在とは何か(智慧)と、
生きる意味(慈悲)
実践的には 、
「実の如く自心を知ること」
『大日経』住心品に、
「云何が菩提とならば、いはく実の如く自心を知るなり」
そして、
『十住心論」には、
「一切の仏教悉くこの一句に摂め尽くされる」
とあります。
どのようにして自心を知るかは、立場(宗派)によっていろいろあり、
密教では三密行を修法します。
その中には、
仏心を得る観想や、仏身を円満する方法がありますが、
とにかく、瞑想修行によって自心を知る。
瞑想で知る、と云うのは直観であり、
言葉や、言葉によって作られる概念の実体化ではありません。
悟りは、談や説や論ではないのです。
本来仏であるのに、愚かさの迷いよって覆われている凡人が、仏とひとつになり、
生滅を繰り返す現実と、不生不滅の本性がひとつになる。
水に塩や砂糖を溶かすと、
見た目は変わらない同じ水だけれど、味が変わる。
そんな感じ 。
成仏とはそういうこと。
成仏とは、仏陀(ブッダ)に成ること。
仏陀とは、目覚めた人、悟った人。
何に目覚め、何を悟るかといえば、法(ダルマ:宇宙の真理)
その中身は、
存在とは何か(智慧)と、
生きる意味(慈悲)
実践的には 、
「実の如く自心を知ること」
『大日経』住心品に、
「云何が菩提とならば、いはく実の如く自心を知るなり」
そして、
『十住心論」には、
「一切の仏教悉くこの一句に摂め尽くされる」
とあります。
どのようにして自心を知るかは、立場(宗派)によっていろいろあり、
密教では三密行を修法します。
その中には、
仏心を得る観想や、仏身を円満する方法がありますが、
とにかく、瞑想修行によって自心を知る。
瞑想で知る、と云うのは直観であり、
言葉や、言葉によって作られる概念の実体化ではありません。
悟りは、談や説や論ではないのです。
本来仏であるのに、愚かさの迷いよって覆われている凡人が、仏とひとつになり、
生滅を繰り返す現実と、不生不滅の本性がひとつになる。
水に塩や砂糖を溶かすと、
見た目は変わらない同じ水だけれど、味が変わる。
そんな感じ 。
成仏とはそういうこと。
何か面白いことをしようと考える。
考えているうちに、
これは誰かに迷惑をかけるかもしれないから、やめようと考える。
僕らは考えることで、いろいろなことができます。
誰かをいじめることもできるけれど、いじめないこともできる。
行動する前に考えることは、危険を避けるためにも大切。
考えることを妨げるものもあります。
満腹や過度の空腹、
疲れ、睡眠不足、身体の痛み
飲酒など。
また、
怒りや興奮は考えることを抑制するけれど、
希望や憧れは、より良く考えることを増長させる。
何よりも、
それが自分のせいであると考えるか、
他人のせいであると思うかで、
ずいぶんと変わります。
考えると、
分からなかったことが分かることもあるから、考えるのは楽しい。
考えることと言葉が、迷いを生む原因となることもあります。
考えるという世界は、その中のみで存在し、事実の世界はないから。
その、迷いの原因になる思惟、分別を、
そうでない直観に変える方法のひとつが、
坐禅瞑想などの心の観察です。
考えているうちに、
これは誰かに迷惑をかけるかもしれないから、やめようと考える。
僕らは考えることで、いろいろなことができます。
誰かをいじめることもできるけれど、いじめないこともできる。
行動する前に考えることは、危険を避けるためにも大切。
考えることを妨げるものもあります。
満腹や過度の空腹、
疲れ、睡眠不足、身体の痛み
飲酒など。
また、
怒りや興奮は考えることを抑制するけれど、
希望や憧れは、より良く考えることを増長させる。
何よりも、
それが自分のせいであると考えるか、
他人のせいであると思うかで、
ずいぶんと変わります。
考えると、
分からなかったことが分かることもあるから、考えるのは楽しい。
考えることと言葉が、迷いを生む原因となることもあります。
考えるという世界は、その中のみで存在し、事実の世界はないから。
その、迷いの原因になる思惟、分別を、
そうでない直観に変える方法のひとつが、
坐禅瞑想などの心の観察です。
赤石、木曽、飛騨山脈のみっつが日本アルプス。
そのうち、南アルプスと呼ばれる赤石山系にある、
過疎地の寺の解散手続きをしています。
お寺をやめる、廃寺(ハイジ)にする手続きです。
廃寺(法人を解散)するのは、
僕が住職をしている飯田市・立石寺の隣村にある小さなお寺。
永年不活動、代表者も登記されていなかったので、
手続きを行うために僕が住職(法人の代表役員)を兼務し、
地域のかたに総代、責任役員をお願いし、申請します。
ここまでは、普通の寺の、住職就任手続きと同じ。
その後、
責任役員会を開いて解散の議決
地域利害関係者へ向け、
寺の事務所で公告掲示。
掲示期間を済ませてから、
総代会の同意書などを添えて、包括宗教法人である高野山真言宗に、解散承認を申請。
しばらくして、解散承認書が高野山から届き、
それと共に、
役員会の議事録
総代会の同意書
公告をした証明書と公告した時の写真
解散理由書
法人の規則
財産目録
財産の処分方法
清算人就任受諾書
などをそえて、県へ解散認証の申請。
ここまでは順調でした。
決められた手続きに沿って、
決められた書類を間違いがないように何度も確認しながら作成し、
担当部署へ提出(郵送)すれば良い。
手間はかかるけれど、それほど難しくはない。
ところが、問題発生。
寺に限らず、古い物件にはよくあることですが、
お寺の名義になっている不動産の所有権が保存されていない。
宗教法人法ができる前からある田舎の山寺では、
法律ができた後も、手続き(登記)をしないでそのまま、なんてことはあるのでしょう。
その間、区画整理などで土地の様子も所有者も変わるから、
どんどん分からなくなる。
所有権が無ければ、お寺を解散した後に、その財産(不動産)を処分できない。
(今回の場合は、地域の地縁団体へ帰属させます)
所有権保存や移転の場合、
法務局に聞いて、
あれとこれの書類をそろえて提出してください
というものではないようで、
その土地が現在どうなって、今までどのような扱いになっていたのかを証明する書類を用意しなければならない 。
そこで、弁護士さんに相談。
土地家屋調査士さんに依頼して,地積測量図を作成する。
おそらく土地の境界が明瞭でないだろうから、
隣接地の方との協議が必要
そのうえで司法書士さんに依頼して登記。
とのこと。
廃寺にする理由が、
過疎化と高齢化、ようするに人がいない、当然お金も無い。
なので、プロへ依頼できずに、自分たちで進めてきたのだけれど、
そろそろ限界みたい。
只今ペンディングで、
土地家屋調査士さんを探しています。
何でも、古いものは手ごわい。
そのうち、南アルプスと呼ばれる赤石山系にある、
過疎地の寺の解散手続きをしています。
お寺をやめる、廃寺(ハイジ)にする手続きです。
廃寺(法人を解散)するのは、
僕が住職をしている飯田市・立石寺の隣村にある小さなお寺。
永年不活動、代表者も登記されていなかったので、
手続きを行うために僕が住職(法人の代表役員)を兼務し、
地域のかたに総代、責任役員をお願いし、申請します。
ここまでは、普通の寺の、住職就任手続きと同じ。
その後、
責任役員会を開いて解散の議決
地域利害関係者へ向け、
寺の事務所で公告掲示。
掲示期間を済ませてから、
総代会の同意書などを添えて、包括宗教法人である高野山真言宗に、解散承認を申請。
しばらくして、解散承認書が高野山から届き、
それと共に、
役員会の議事録
総代会の同意書
公告をした証明書と公告した時の写真
解散理由書
法人の規則
財産目録
財産の処分方法
清算人就任受諾書
などをそえて、県へ解散認証の申請。
ここまでは順調でした。
決められた手続きに沿って、
決められた書類を間違いがないように何度も確認しながら作成し、
担当部署へ提出(郵送)すれば良い。
手間はかかるけれど、それほど難しくはない。
ところが、問題発生。
寺に限らず、古い物件にはよくあることですが、
お寺の名義になっている不動産の所有権が保存されていない。
宗教法人法ができる前からある田舎の山寺では、
法律ができた後も、手続き(登記)をしないでそのまま、なんてことはあるのでしょう。
その間、区画整理などで土地の様子も所有者も変わるから、
どんどん分からなくなる。
所有権が無ければ、お寺を解散した後に、その財産(不動産)を処分できない。
(今回の場合は、地域の地縁団体へ帰属させます)
所有権保存や移転の場合、
法務局に聞いて、
あれとこれの書類をそろえて提出してください
というものではないようで、
その土地が現在どうなって、今までどのような扱いになっていたのかを証明する書類を用意しなければならない 。
そこで、弁護士さんに相談。
土地家屋調査士さんに依頼して,地積測量図を作成する。
おそらく土地の境界が明瞭でないだろうから、
隣接地の方との協議が必要
そのうえで司法書士さんに依頼して登記。
とのこと。
廃寺にする理由が、
過疎化と高齢化、ようするに人がいない、当然お金も無い。
なので、プロへ依頼できずに、自分たちで進めてきたのだけれど、
そろそろ限界みたい。
只今ペンディングで、
土地家屋調査士さんを探しています。
何でも、古いものは手ごわい。