2、事実と信仰の空海
『大日経』も『金剛頂経』もそれがあるだけでは広まらず、
お大師さんによって弘通された。『菩提心論』も『般若心経』も同じ。
僕ら末徒は、それによって教化され理解を深めている。
偉人といわれるような人は、永遠のいのちを持つ。
お釈迦さまやキリストさま、お大師さんもそうである。
遺族が故人先祖を思うのと、構造は同じ。
仏教は空無我の教えであるから、
ある特定の人を実在のように拝むのはおかしいけれど、
父を慕うように、
師に憧れるように、
学ぶべき存在として、
行き詰まりがある時の支えとして、
拝むことは信仰の入り口である。
そこから、混じり気の無い心が生まれ、
自分だけではなく他を思う気持ちにつながり、
自分にとってより良い教えを取勝捨劣し、
心をコントロールできるようにする。
お大師さんは垂迹である、という論文がある。
http:// ci.nii. ac.jp/n aid/400 1935555 8
本地は第三地の菩薩で、だから、同行二人であり、奥の院で今でも修行している。
これは『御遺告』「初めに真言宗成立の由来を示す縁起第一」による。
さて、
お大師さんの画像がなぜ、右を向いているのか、ということについて、
正面より斜めのほうが図画として効果的なのか、という僕の質問に、
仏師・木村光秀師は、
「特に祖師像はその人の見た目から、内面性迄も後世に残さないといけませんので、絵師が本人を見ながらというのならいいのですが、第三者が特徴を伝えながら描かせる場合、斜めの方が描きやすいと思います」
と教えてくれた。
『弘法大師影像図考』(水原尭栄 著)には、
畫面はたいてい横向きの線に書かれてありまして、御頭の曲線あたりの特徴は骨相学上より見まして大師様の諸芸通達見諦の大阿闍梨として発達せる有様を骨相の上よりも書き出されてゐるのでないか
とある。
真言八祖像を見ると、
龍猛、善無畏、お大師さんは右向き
龍智、金剛智、不空、一行、恵果の六師は左向きである。
描かれている印相を見ると、
龍猛、善無畏、お大師さんは加持をしている姿で、他は違う。
右向きというのは、加持をしている姿なのだろうか。
それも、
お大師さんが持っているのは五鈷であるから、
本尊ではなく衆生(人)、拝む僕らを加持している姿である。
『大日経』も『金剛頂経』もそれがあるだけでは広まらず、
お大師さんによって弘通された。『菩提心論』も『般若心経』も同じ。
僕ら末徒は、それによって教化され理解を深めている。
偉人といわれるような人は、永遠のいのちを持つ。
お釈迦さまやキリストさま、お大師さんもそうである。
遺族が故人先祖を思うのと、構造は同じ。
仏教は空無我の教えであるから、
ある特定の人を実在のように拝むのはおかしいけれど、
父を慕うように、
師に憧れるように、
学ぶべき存在として、
行き詰まりがある時の支えとして、
拝むことは信仰の入り口である。
そこから、混じり気の無い心が生まれ、
自分だけではなく他を思う気持ちにつながり、
自分にとってより良い教えを取勝捨劣し、
心をコントロールできるようにする。
お大師さんは垂迹である、という論文がある。
http://
本地は第三地の菩薩で、だから、同行二人であり、奥の院で今でも修行している。
これは『御遺告』「初めに真言宗成立の由来を示す縁起第一」による。
さて、
お大師さんの画像がなぜ、右を向いているのか、ということについて、
正面より斜めのほうが図画として効果的なのか、という僕の質問に、
仏師・木村光秀師は、
「特に祖師像はその人の見た目から、内面性迄も後世に残さないといけませんので、絵師が本人を見ながらというのならいいのですが、第三者が特徴を伝えながら描かせる場合、斜めの方が描きやすいと思います」
と教えてくれた。
『弘法大師影像図考』(水原尭栄 著)には、
畫面はたいてい横向きの線に書かれてありまして、御頭の曲線あたりの特徴は骨相学上より見まして大師様の諸芸通達見諦の大阿闍梨として発達せる有様を骨相の上よりも書き出されてゐるのでないか
とある。
真言八祖像を見ると、
龍猛、善無畏、お大師さんは右向き
龍智、金剛智、不空、一行、恵果の六師は左向きである。
描かれている印相を見ると、
龍猛、善無畏、お大師さんは加持をしている姿で、他は違う。
右向きというのは、加持をしている姿なのだろうか。
それも、
お大師さんが持っているのは五鈷であるから、
本尊ではなく衆生(人)、拝む僕らを加持している姿である。
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