『六大新報』460-462(1912年)に、
栂尾祥雲先生の「引導法の研究」が連載されていたので、
担当者に頼んで複写を送ってもらう。
個人的意見を加えてまとめました。
1、引導の起源
引導と云う言葉は
「衆生を引導す」(『法華経』方便品)
「仏自ら浄飯王を引導した」(『浄飯王般泥涅経』)
が始まりか。
大乗以前は、
僧侶が俗家の葬儀に関与することを禁じていた(『善見律』)
2、仏式葬儀の起源(日本)
622年 聖徳太子薨去のとき、
高麗の僧 恵慈が僧を請じ、齋を設けた(『日本書紀』第二十二)
702年(大寶2年)持統天皇を飛鳥の岡に火葬。 元興寺道昭により始行
756年(天平勝寶8年)聖武天皇崩御 香、華鬘、蓋繖などの仏器を用い、僧侶が讃唄を唱える。 これは誅詞のようなもの
まだ、引導作法というものは無い。
当時の一般庶民は、
家長が葬り、土葬、水葬、風葬などで棺は無く、遺体は山野に捨て置くことが多かった。
822年ころ、『日本霊異記』(薬師寺 景戒)で、
漢の「冥報記」に擬して、追善の修すべきこと、写経読誦の功徳を説く。
__________
同時期の『性霊集』に、忌日追善の願文・表白が28編ある。
空海は宝亀5年(774年) - 承和2年(835年)
__________
3、その後、
『引導大事』御流(大師作とあるが偽作)流通。
内容は、
授戒名、授戒、引導大事(智拳印)、アビラウンケン、仏眼、オン字、血脈、撥遣、
純粋に密教思想(即身成仏為本)に基づき、浄土思想は無い。
空海の時代、戒名をつけることは無かった。
支那では、
黄檗の希運禅師が引導の開祖(『山海里』)
「北星河水流不尽 我子五逆入無所
一子出家九族生天 此語妄語諸佛亦妄語」
(死せる母に対する引導)
延喜以降、日本では陰陽師が陰陽道によって葬儀を行う。
1036年(長元9年)後一条天皇の葬儀(『類聚雑例』)
入棺後、殯宮に奉還し、翌日葬送
時日方角は陰陽師による
次第は、
黄幡
炬火者 十二人
御前僧 二十人 ⇒ 『浄飯王般泥涅経』棺前引導に擬したもの 天台僧が担当。
歩障
火輿
行障
御輿
香与
御膳辛櫃
開白相府
以下行列
引導法の基礎は、仁海僧正(951-1046)による。
それは、
宇治の関白頼道公のため経帷子に、
即身成仏の真言、決定往生の真言を書く
さらに、
陰陽師が行う地鎮法に密教の根拠を調えた。(地鎮法「付真言宗取葬所事」)
覚鑁上人(1095-1144)の「一期大要秘密集」に、
決定用心の事 、引導大事の次第がある。
______________
ここには、
大日如来の教令輪真にして、諸魔降伏忿怒の尊たる不動尊を祈念して、
天魔外道の障礙を避けることが書かれている。
葬儀の本尊は不動、という根拠のひとつかもしれない。
_______________
覚鑁さんの次第は、
まず死者に授戒、授戒名 仏弟子ならしめる。
これは、『善見律』などに、仏弟子にあらざるものを引導する事を禁じているから。
そして、
導師自身がまず成仏してから、亡者を成仏させる次第になっている。
_________________
現代でも、
引導の前に、自坊で不動法一座を修法すること
が伝授されるので、導師はそうするべきであろう。
_____________
鎌倉時代
成賢師『作法集』中の『葬送作法』では、
導師みづから成仏の観を成じたる後、初めて亡者を加持する
墓所を浄土とする
とある。
室町時代
浄土思想が取り入れられる(世間で大流行していたから)
具体的には、
阿弥陀如来来迎印、六地蔵、十三仏の思想など。
1254年(建長6年)の『十王讃嘆鈔』には、
年忌は三回忌まで(10回)
これによって、人死すれば直ちに不動を本尊として不動印明を結誦する、となった。
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当時の次第は、往生浄土系の印言と、即身成仏の印言で構成された。
その後、高野山では『二巻疏』が著されるが、中の「引導作法」は不調和であり、
「引導略作法」は調和した内容になっている。
_______________
現在では、
『引導作法上・下』(東方出版 伊藤真城監修)
に、その引導略作法がある。
略作法といっても、
実際に使うには、とても煩雑で長い時間が必要。
________________
さて、
引導は、相手を仏道に引き入れることだけれど、
死者に対して行う、というのはどういうことだろうか。
当然のことながら、
死者も死者の魂も、墓や仏壇や寺にあるのではなく、心の中にある。
死者が行くとされる浄土も地獄も心の中にあり、密教では現世が浄土と考える。
ということは、拝む人を引導することになる。
そのような次第になっているのだろうか。
そして、
引導する資格があるのかどうかを自らに問い、
その資質が保てるよう、導師は普段から努力精進しなければならない。
栂尾祥雲先生の「引導法の研究」が連載されていたので、
担当者に頼んで複写を送ってもらう。
個人的意見を加えてまとめました。
1、引導の起源
引導と云う言葉は
「衆生を引導す」(『法華経』方便品)
「仏自ら浄飯王を引導した」(『浄飯王般泥涅経』)
が始まりか。
大乗以前は、
僧侶が俗家の葬儀に関与することを禁じていた(『善見律』)
2、仏式葬儀の起源(日本)
622年 聖徳太子薨去のとき、
高麗の僧 恵慈が僧を請じ、齋を設けた(『日本書紀』第二十二)
702年(大寶2年)持統天皇を飛鳥の岡に火葬。 元興寺道昭により始行
756年(天平勝寶8年)聖武天皇崩御 香、華鬘、蓋繖などの仏器を用い、僧侶が讃唄を唱える。 これは誅詞のようなもの
まだ、引導作法というものは無い。
当時の一般庶民は、
家長が葬り、土葬、水葬、風葬などで棺は無く、遺体は山野に捨て置くことが多かった。
822年ころ、『日本霊異記』(薬師寺 景戒)で、
漢の「冥報記」に擬して、追善の修すべきこと、写経読誦の功徳を説く。
__________
同時期の『性霊集』に、忌日追善の願文・表白が28編ある。
空海は宝亀5年(774年) - 承和2年(835年)
__________
3、その後、
『引導大事』御流(大師作とあるが偽作)流通。
内容は、
授戒名、授戒、引導大事(智拳印)、アビラウンケン、仏眼、オン字、血脈、撥遣、
純粋に密教思想(即身成仏為本)に基づき、浄土思想は無い。
空海の時代、戒名をつけることは無かった。
支那では、
黄檗の希運禅師が引導の開祖(『山海里』)
「北星河水流不尽 我子五逆入無所
一子出家九族生天 此語妄語諸佛亦妄語」
(死せる母に対する引導)
延喜以降、日本では陰陽師が陰陽道によって葬儀を行う。
1036年(長元9年)後一条天皇の葬儀(『類聚雑例』)
入棺後、殯宮に奉還し、翌日葬送
時日方角は陰陽師による
次第は、
黄幡
炬火者 十二人
御前僧 二十人 ⇒ 『浄飯王般泥涅経』棺前引導に擬したもの 天台僧が担当。
歩障
火輿
行障
御輿
香与
御膳辛櫃
開白相府
以下行列
引導法の基礎は、仁海僧正(951-1046)による。
それは、
宇治の関白頼道公のため経帷子に、
即身成仏の真言、決定往生の真言を書く
さらに、
陰陽師が行う地鎮法に密教の根拠を調えた。(地鎮法「付真言宗取葬所事」)
覚鑁上人(1095-1144)の「一期大要秘密集」に、
決定用心の事 、引導大事の次第がある。
______________
ここには、
大日如来の教令輪真にして、諸魔降伏忿怒の尊たる不動尊を祈念して、
天魔外道の障礙を避けることが書かれている。
葬儀の本尊は不動、という根拠のひとつかもしれない。
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覚鑁さんの次第は、
まず死者に授戒、授戒名 仏弟子ならしめる。
これは、『善見律』などに、仏弟子にあらざるものを引導する事を禁じているから。
そして、
導師自身がまず成仏してから、亡者を成仏させる次第になっている。
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現代でも、
引導の前に、自坊で不動法一座を修法すること
が伝授されるので、導師はそうするべきであろう。
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鎌倉時代
成賢師『作法集』中の『葬送作法』では、
導師みづから成仏の観を成じたる後、初めて亡者を加持する
墓所を浄土とする
とある。
室町時代
浄土思想が取り入れられる(世間で大流行していたから)
具体的には、
阿弥陀如来来迎印、六地蔵、十三仏の思想など。
1254年(建長6年)の『十王讃嘆鈔』には、
年忌は三回忌まで(10回)
これによって、人死すれば直ちに不動を本尊として不動印明を結誦する、となった。
http://
当時の次第は、往生浄土系の印言と、即身成仏の印言で構成された。
その後、高野山では『二巻疏』が著されるが、中の「引導作法」は不調和であり、
「引導略作法」は調和した内容になっている。
_______________
現在では、
『引導作法上・下』(東方出版 伊藤真城監修)
に、その引導略作法がある。
略作法といっても、
実際に使うには、とても煩雑で長い時間が必要。
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さて、
引導は、相手を仏道に引き入れることだけれど、
死者に対して行う、というのはどういうことだろうか。
当然のことながら、
死者も死者の魂も、墓や仏壇や寺にあるのではなく、心の中にある。
死者が行くとされる浄土も地獄も心の中にあり、密教では現世が浄土と考える。
ということは、拝む人を引導することになる。
そのような次第になっているのだろうか。
そして、
引導する資格があるのかどうかを自らに問い、
その資質が保てるよう、導師は普段から努力精進しなければならない。
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