総ての事象には、
1、その本性(本質)
2、その姿形
3、その働き
がありますが、
心は3、の働きのみ。
これは「生命(いのち)」も同じです。
医学生理学機能的な生命ではなく、
「キミは僕のイノチだ」
「商売は信用がいのち」
などの大切なもの、真髄ということ。
ところで、
「弘法大師空海は『即身成仏義』、『声字実相義』、『吽字義』を著し、高野山を開創した」
というのは事実であり、
「弘法大師空海は日本で最も偉大な宗教者である」
と言うのは意見、感想に過ぎない。
事実によって証明された意見のみが科学的知見になるのだろうけれど、
心や生命は、事実を証明することが非常に難しい。
生命科学の中村桂子博士は、
固体と固体との「あいだ」にあるとしか言えないような主体的な力を生命と呼び、
それが心
と「物語としての生命」(『宗教と科学』第6巻)に書いています。
これを元に、
村上保壽先生の意見は、
生命は関係性であり、その生命を心とする。
心とは、固体と固体との関係のなかで、自己のありかたを自ら決定する主体的な意志
と『密教と現代』とあります。
密教的には、
『即身成仏義』にあるように、
われらの肉身といっても、それがそのまま宇宙の一切につながっており、
その心といっても、宇宙一切の心に通じている。
そこで、この一身の実体いかん、実相いかん、妙用いかん、無碍の当体いかんが問題であり、
また仏になるといっても、われらの心の他に悟りがあるわけではなく、
この心が宇宙一切を貫く仏の智慧(心、本性)といかに通ずるものなりや。
大師が十住心論十の初に云える如くに、
実の如くに自心の源底を覚知し、
究竟して自身の数量をさとることを、
いかに体現するかということが当面の問題である。
と栂尾先生は書いています。(『現代語の十巻章と解説』149頁)
心やイノチが関係性の中にあるものとすれば、
少し理解できることがあります。
世界には多くの国があり、
ひとつの国にもいろいろな社会やグループがあります。
国や社会が違っても仲良くする人がいる反面、
ケンカしたり争っている関係もある。
これをミクロ的視点から考えれば、
この世で自分と同じ世界に住んでいる人はいません。
夫婦や子でも違う世界にいる。
その世界が自心です。
ですから、
違う世界の人と仲良くして思いやりを持つか、
それとも対立するかは、
まったく自分の中の問題になります。
1、その本性(本質)
2、その姿形
3、その働き
がありますが、
心は3、の働きのみ。
これは「生命(いのち)」も同じです。
医学生理学機能的な生命ではなく、
「キミは僕のイノチだ」
「商売は信用がいのち」
などの大切なもの、真髄ということ。
ところで、
「弘法大師空海は『即身成仏義』、『声字実相義』、『吽字義』を著し、高野山を開創した」
というのは事実であり、
「弘法大師空海は日本で最も偉大な宗教者である」
と言うのは意見、感想に過ぎない。
事実によって証明された意見のみが科学的知見になるのだろうけれど、
心や生命は、事実を証明することが非常に難しい。
生命科学の中村桂子博士は、
固体と固体との「あいだ」にあるとしか言えないような主体的な力を生命と呼び、
それが心
と「物語としての生命」(『宗教と科学』第6巻)に書いています。
これを元に、
村上保壽先生の意見は、
生命は関係性であり、その生命を心とする。
心とは、固体と固体との関係のなかで、自己のありかたを自ら決定する主体的な意志
と『密教と現代』とあります。
密教的には、
『即身成仏義』にあるように、
われらの肉身といっても、それがそのまま宇宙の一切につながっており、
その心といっても、宇宙一切の心に通じている。
そこで、この一身の実体いかん、実相いかん、妙用いかん、無碍の当体いかんが問題であり、
また仏になるといっても、われらの心の他に悟りがあるわけではなく、
この心が宇宙一切を貫く仏の智慧(心、本性)といかに通ずるものなりや。
大師が十住心論十の初に云える如くに、
実の如くに自心の源底を覚知し、
究竟して自身の数量をさとることを、
いかに体現するかということが当面の問題である。
と栂尾先生は書いています。(『現代語の十巻章と解説』149頁)
心やイノチが関係性の中にあるものとすれば、
少し理解できることがあります。
世界には多くの国があり、
ひとつの国にもいろいろな社会やグループがあります。
国や社会が違っても仲良くする人がいる反面、
ケンカしたり争っている関係もある。
これをミクロ的視点から考えれば、
この世で自分と同じ世界に住んでいる人はいません。
夫婦や子でも違う世界にいる。
その世界が自心です。
ですから、
違う世界の人と仲良くして思いやりを持つか、
それとも対立するかは、
まったく自分の中の問題になります。
PR